『シルヴィア・プラス詩集』を読む

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 ここに掲げた絵は、雑誌『ちくま』4月号の表紙だ。この下手なような女性の絵は小林エリカが描いた詩人シルヴィア・プラスの肖像。表紙裏にシルヴィア・プラスについて小林エリカが書いている。
 シルヴィア・プラスアメリカ生まれの詩人、小説家。才色兼備の女性で、うつ病を患い、自殺未遂の末、入院治療もした。イギリスで詩人テッド・ヒューズと出会い結婚。しかしテッドがアーシャ・ウィーヴィルと恋愛関係になったため、2人の子どもたちを連れてロンドンへ。小説『ベル・ジャー』を刊行したのち自殺。享年30歳。オーブンに頭を突っ込んでの一酸化炭素中毒自殺だった。
 テッドと一緒になったアーシャは、シルヴィアの残した2人の子どもとテッドとの間にできた1人の子どもを育てたが、テッドの情事が発覚して、4歳になる娘も道ずれにガス自殺した。享年40歳。
 小林がシルヴィアの詩「遺言」を紹介している。

平凡な柩などいらない 私が欲しいのは石の柩
(中略)
人々がやって来て もの言わぬ鉱石の間から
先祖を発掘する姿をじっと見つめていたい。
(中略)
私を偉大な人間だったと思うかしら。
生きた日々を果実のように砂糖漬けにして保存しておかなければ!
私の鏡は曇ってゆく――
(『湖水を渡って――シルヴィア・プラス詩集』高田宣子・小久江晴子訳、思潮社

 それで、『シルヴィア・プラス詩集』(思潮社)を読む。訳者の皆見昭が「解題」で書いている。「プラスは、二重三重の連想を生むイメージを駆使し、更に非常に豊かな音韻の技巧を用いる詩人であるので、その作品の翻訳にはいくつものヴァリエーションが可能である」。

 それは翻訳が困難だということだろう。本書から「父なき息子のために」という詩を紹介する。

きみはまもなく気がつくだろう、
きみの傍らに木のように育つ、ひとつの不在に。
死の木、色のない木、オーストリア産のゴムの木――
稲妻に去勢されて、葉も抜け落ちた木――幻影のようなもの、
それに豚の背のように鈍い空、まったく思いやりを欠いたもの。


でも今、きみは物言わない。
そしてわたしはきみの愚かさが、
その盲目の鏡がいとしい。のぞき込んでも、
わたしの顔が見えるだけ。それをきみはおかしがる。
梯子の横木を握るように


わたしの鼻にしがみついてもらうのは、わたしにとって嬉しいこと。
いつの日か、きみはよくないものに触れるかも知れない、
小さな子供の頭蓋骨、圧しつぶされた青い丘、畏怖に満ちた沈黙とか。
その日までは、きみの微笑がわたしの財産。


 皆見昭は「解題」で、シルヴィアは子供たちにミルクの用意をしておいてガス自殺したと書いている。オーブンに頭を突っ込んでガス自殺したのか。
 ごく些末なことだが、訳語についてちょっと。「占い板」に、「その昔は、いなごのように言葉が暗い大気を叩き/穀物を食いつくして、その穂を虚しく揺れるままに残したものだ」の「いなご」は「バッタ」とすべきだろう。穀物を食いつくすのはサバクトビバッタで、イナゴが食いつくすことはない。原語はlocustではないだろうか。
 「森の神」の「酔っぱらったおおばん鳥ののろい羽音だけが聞こえ」の「おおばん鳥」は鳥の語が余分だ。「オオバン」はクイナ科の水鳥で歩くのは苦手らしい。オオバンは標準和名だから、おおばん鳥というのは「ひばり鳥」とか「すずめ鳥」とか「つばめ鳥」みたいに違和感がある。