長田弘『世界は一冊の本』(ちくま文庫)を読む。2015年に亡くなった詩人が1994年に出版した詩集。
友人の死
これをしたといえるものはない。
こんなふうに生きちゃいけなかった。
きみはそういって、静かに笑った。
怒りを表にあらすことをしなかった。
静かな微笑は、けれども、
きみの怒りの表現だったとおもう。
きみが叫ぶのを聞いたことがない。
慎ましさが、きみの悪徳だった。
癒すすべのない病に襲われても
慎ましさを、頑としてまもった。
蝶を愛し、ジャズを愛し、
話すときは、まっすぐ目を見て話した。
何一つ、後に遺すことをしなかった、
心の酸のような、微笑のほかは。
「人間は、一つの死体をかついでいる
小さな魂にすぎない」
さよなら、きみのことを
ほんとうは何も知らなかった。
役者の死
板一枚、その下は奈落だ
その板を踏みつづけて 一生だ
役者は それがすべてである
チェーホフのソーニャは言った
「片時も休まずに働いて そして
素直に 死んでゆきましょうね」
難しい芝居を 何よりきみは
楽しんだ 不条理は喜びである
他人の人生を 生きる仕事
等身大でしかやれない稼業
たとえ死んでも 生き返るくらい
きみはできたはずだ できなかった
詩人の死
古き良きものをうたわなかった。
不変なるものを信じなかった。
ふりかえることをしなかった。
嘆くことをしなかった。
ソノ然ラザルヲ以テ
ソノ然ルヲ疑ウ。
善い言葉と自由な時間。
それ以上は何ももとめなかった。
何をしたか、ではない。
ひとは何をしなかったか、だ。
生まれて、しばらく生きて、
それから死ぬ。
ただそれだけのあいだを、
上手に過ごすことをしなかった。
——笑って、身を低めていよう。
死ぬときも、さよならをいわなかった。
詩人でなかったら、あなたの
人生はきっと幸福だった。
無名の死
空は墜ちてこない。
何もかもがつつましい。
朝がきて、昼がくる。
ひとが一人消える。
ひとりぶんの火が燃える。
骨と煙、それだけだ。
ゼロを引いたあとに
何がのこる?
あとに遺された
ありふれた一日。
時計が刻む
いつもの時間。
誰がいなくなったのか。
誰がいなくなったのか。
われわれは誰でもない。
母を見送る
静かである。
静かである。
静かである。
花の中の、
小さな顔。
口の紅。
静かである。
静かである。
静かである。
胸の上の、
組みあわされた
頑丈な指。
静かである。
静かである。
静かである。
泣きながら生まれてきて、
黙って死んでゆくのだ。
人は年老いた幼児として。
誰だろうと
われわれは死者の子どもだ。
子どもは母を焼却しなければならない。
静かである。
静かである。
静かである。
さよなら、
おふくろ。
幸福でしたか?
火……
灰……
none……
