5月13日(米国時間)にアメリカで関根伸夫氏が亡くなった。76歳だった。26歳のとき、須磨離宮公園での第一回野外彫刻展に出品した《位相-大地》が、関根を日本現代美術の最前線に押し立てた。〈もの派〉の代表的作家と称えられ、その作品は教科書にも掲載されるまでになった。亡くなって多くの人が追悼のコメントを書いている。みな関根を称え、業績を高く評価している。
関根はその後モニュメントなどを制作する会社を立ち上げ、多い時は社員40人ほどを抱えていたと聞いた。韓国や中国でも仕事をしていたという。もう10年以上前、銀座の2丁目にあった美術世界画廊での個展を見たことがある。平面作品を展示していて、平面の一部を切り取り、それを切り取った穴の横に貼り、全体を金箔のようなもので覆って「位相―絵画」と名づけていた。ひどい作品だった。もう経営していた会社は畳んでしまっていたようだった。この美術世界画廊は韓国の統一教会絡みの画廊として有名だった。高価な壺なども売っていた。
多くの人達が関根を高く評価する追悼を挙げているなかで、ミヅマアートギャラリーの三潴末雄さんのツイッターのコメントが異色だった。
80年代からパブリックアートの会社を作り、ビジネスに勤しんでましたね。90年代に入りバブル経済が破綻してから会社を閉めて、作家活動に戻り、プレゼンを受けたことがありました。美術史に残る業績を持った方でしたが、15年間のブランクもあり、作品は昔の顔で出ています感が強くお断りしました。
作家が会社経営に勤しんだら作品の質が落ちてしまうのは当然だった。40人の社員を抱えていたら、日々来月の給料のことや取引先への支払いのことなど、要するにお金のことしか考えられなくなってしまう。そのこと以上に作家活動と矛盾することはないだろう。晩年の関根が「昔の顔で出ていた」のは或る種必然だったのだ。
しかしそれにも関わらず歴史的な関根の評価が下がることはないだろう。晩年若い頃のコピーを繰り返したビュッフェもそうなのだが、作家は一番良い時の評価が記憶されるものだ。全盛期の評価がその作家の評価となるのだ。〈もの派〉の代表作家として関根の名前は忘れられることがないだろう。
※写真は関根伸夫の《位相-大地》(1968年)