白洲正子『なんでもないもの』を読んで

 白洲正子『なんでもないもの』(角川ソフィア文庫)を読む。副題が「白洲正子エッセイ集〈骨董〉」とあり、白洲が書いた骨董に関するエッセイを青柳恵介がまとめたオリジナル編集。私は白洲正子を初めて読んだ。今まで何となく敬遠していたのだった。
 さすがに生半可な人ではないようだ。「私の茶の湯観」では茶道に対して厳しい言葉を書き連ねている。

(……)「茶の湯の精神」、「茶の湯の心」などという言葉がはやるのも、茶道を支えてきた肉体が衰弱し、形骸化したことの証拠だと思う。
 それでもお茶を飲むことは好きだから、窮屈なことは我慢できるが、その後で「お道具拝見」などといって、ろくでもない茶碗やなつめを、大げさな手つきで撫ぜまわし、さも感心した風をよそおう演技力は私にはない。そいう演技は、実社会だけでもう沢山、せめて茶室の中では、煩瑣な生活を忘れて、のびのびした気分を味わいたいと希(ねが)うのである。

 私は茶道のことな何も分からないが、このあたりのことは白洲の言うとおりなのだろう。
 しかし、骨董のことを語るとき、白洲の言葉にしっくりしないものを感じてしまう。

 高いお金を出せば、必ずそれだけのものは買える。そういう点で、骨董界はきわめて正直なところである。それほどお金がないために、安いところで我慢しているが、掘出し物にはまったく興味がない。欲に目がくらんで、贋物をつかむことが多いからである。そんなものを狙うより、好きなものを買うことだ。買って、つきあってみることだ。それがおのずから掘出しになれば、こんな仕合せなことはない。ほんとうの「掘出し物」とは、物に即して、自分の眼を、心を、掘り出すことではないか、この頃私はそう思うようになった。

 骨董趣味は高級なそれだという暗黙の前提があるようだ。それがあるから、高いだの安いだのと平気で書くことができる。贋物を掴んで損をした、掘出し物を見つけて得をしたと書くことになる。骨董には定価がない。だから損をしたり儲かったりするのだろう。
 本書を読みながら、白洲に対して何かほんのわずかではあるが、卑しいと言ってしまっては強すぎるが、それに類する印象をもってしまうのをいかんともしがたい。そして、次のくだりを読んだときに、そのことが再確認された。

(……)いくら安いといっても、こっちも金持ではなかったから、忽ちお金に詰まってしまい、夢中で売ったり買ったりしている間に、ふと気がついた時は、元も子もなくしていた。私が本気で物を見るようになったのはその時からで、だからといって、ほんとうに見えるようになったとは今でも思ってはいない。ただ好きなものを「ぱくぱく喰わずには」いられないだけのことで、そこに物から学んだ私の暮らしがある。誰のものでもない私の人生がある。

 それがそんなに誇るほどの人生だと言えるのだろうか。さらに、

(……)一般人は骨董屋といえばすぐ贋物と結びつけるが、それは戦後急激に増えた四流五流の新興の人たちで、しっかりした業者は何よりも信用を第一としている。もし一点でも客に贋物を売りつけたら、それだけで彼らの信用は一敗地にまみれ、まともな付き合いはできなくなるからだ。

 そうだろうか。中島誠之助は『ニセモノ師たち』(講談社文庫)で京都の一流の骨董商が、客が甘いと踏んだら容赦なく贋物を掴ませると書いているし、私の知っている画商さんは、自分が信頼できる骨董商は2人だけであとの骨董商は本当のことを言わないと明かしてくれた。村田喜代子も『人が見たら蛙になれ』(朝日文庫)という骨董商を扱った小説で、彼らのえげつない商売を暴露している。
 白洲については、骨董以外のものを読んでみたほうがいいのだろうか。


ニセモノ師たち (講談社文庫)

ニセモノ師たち (講談社文庫)

人が見たら蛙に化れ (朝日文庫)

人が見たら蛙に化れ (朝日文庫)