山本萌『こたつの上の水滴』を読む

 山本萌『こたつの上の水滴』(コールサック社)を読む。副題が「萌庵骨董雑記」というもの。著者紹介に、1948年1月大阪生まれ、20代半ばより骨董に魅せられ、古美術評論家秦秀雄とその著書を通じて出会う。1986年より埼玉県所沢市の街中に、古い家を借りて猫と暮らす、とある。
 副題にある通り骨董にまつわるエッセイを集めている。しかし骨董の収集家というと、どうしてもどこかに卑しい印象が切りはなせない。こんないいものを手に入れたとか、掘り出し物を安値で入手したとか、いいものと交換したとか、そういう話が付きまとう。あの白洲正子でさえ、そんな卑しさと無関係とは言いきれない。
 それが山本萌では卑しさが感じられない。山本も自分の持っている骨董品に絡めたエッセイを綴っている。江戸時代初期の初期伊万里の陶片の写真が載っている。その陶片について山本は書く。

 南青山の古民藝もりたさんに立ち寄ったら、初期伊万里の花の絵の残欠が、まっ先に目に飛び込んできた。あっと思わず洩らして、大きく反り返った失敗伊万里の、一りん二りん花の咲く風景に、しばし私も佇んだ。

 そして山本はこの伊万里の陶片を手に入れる。箪笥の上の皿立てに飾って、日に何度も陶片の中の花を見に行く。完品なんかでなく、わざわざ陶片に目を付けてそれを選び購って自宅に飾る。掘り出し物という視点からは遠い価値観だ。
 さらに別の章で、「あなたは欠けた茶碗まで使っているっていうんだから、驚きですよ」とある人から言われた、という。発掘のものが主で、茶碗や皿小鉢も欠けたり歪んだりしている。それらを美しいと思っても、不便を感じたことはない。倹約して、割れたものを使っているのでもない、と。そして続けて書く。

 20年近く前、何故かわが家の食器に一度脚光が当たったことがある。『骨董の器づかい』という平凡社の大判の本で、酒器まで含めて沢山の写真を撮ってもらった。晴れがましい気持ちで刊行したての本を開くと、申し合わせたように他の人々の器たちは、きらびやかで、完器の立派な品揃えだった。圧倒されてしまって、すぐさま本を閉じたことを憶えている。

 しかし、その後山本の個展の会場の片隅にこの本を置いていたら、所沢の古美術店の主人が立ち寄ってくれて、この本を見て、「あ、これ萌さんだったんだ。いいよねえ。この本を手にすると、どうしてかこの頁ばかり見てしまうんだよ。それが不思議だった」と言ってくれる。
 この本をくれた方は文章がいいんだよ、と言われたが、著者の姿勢が素晴らしいと思った。Mさん、ありがとうございました。

 

 

こたつの上の水滴

こたつの上の水滴