篠田魔弧という画家がいた

  篠田魔弧という画家がいた。

f:id:mmpolo:20200827211719j:plain


f:id:mmpolo:20200827211703j:plain


f:id:mmpolo:20200827211645j:plain


f:id:mmpolo:20200827211622j:plain


f:id:mmpolo:20200827211556j:plain

矢島一族
f:id:mmpolo:20200827211539j:plain

 1908(明治41)年、長野県下伊那郡上郷村上黒田(現飯田市)、篠田伊義の三男として生まれる(本名篠田信義)。

戦前に2カ年ほど絵の勉強のため上京し、帰郷後は林や山中に家を建て自然児を自認し制作を続ける。

アンデパンダン展に出品、関龍夫、清水監、山本弘、菅沼立男らと交友があった。

1964(昭和39)年、57歳で急逝する。

 これは2005年に発行された『洋画の群像 明治から現代 郷土を彩った画家たち』(洋画の群像実行委員会=編集発行)に紹介されている魔弧の略歴だ。ここで郷土とは長野県飯田市下伊那郡地方を意味する。

 篠田魔弧は地方の旧家出身で兄弟は中学校の校長や長野県の教育委員会に勤める教育者一家だった。魔弧だけが兄弟中唯一の変わり者で親戚中の鼻つまみ者だった、とは魔弧の甥で私と高校の同級だった友人の話だ。土地を分け与えられ小屋を建てて一人で住んでいた。米と味噌ももらっていたが、時に実家に忍び込んで書画骨董を持ち出して金に換えていた。画用紙にクレヨンで絵を描いてお金に困ると飯田市内の医者を訪ねて小遣い銭くらいで買ってもらっていた。いや金額の安さから医者は施しのつもりだったのではないか。

 亡くなったあと東京から来た画商という女が東京で発表してあげるからと、実家に残されていた大量の絵を持って行ってそれきりになってしまった。詐欺師だったのだ。だから現在魔弧の絵はあまりない。ここに紹介したのは、『洋画の群像』に掲載されていたものと、魔弧と付き合いのあった矢島一家の娘さんが持っているものだ。甥で私の友人も数枚持っているというが、どこにあるか分からないらしい。

 絵は優れたものだ。フォービスム的な色遣いで、グレコを思わせる筆使いでもある。探せば飯田市内のどこかに残っているのではないか。集めて飯田市美術博物館で遺作展を企画してほしいと思っている。