篠田魔孤と久保田創二

 昨年が没後50年だった無名の画家篠田魔孤については以前ここで紹介したことがある。

伝説の画家・篠田魔孤を誰も知らない(2007年1月7日)
 上に掲載したような優れた絵を描いていながら無名のまま亡くなった。作品は散逸し、もうほとんど魔孤さんのことも絵のことも知る人がいなくなった。そういう私も生前の魔孤さんに会ったことはないし、作品も図版でしか見たことがない。その魔孤さんが亡くなったのが1964年11月27日だった。魔孤が亡くなって、友人の俳人久保田創二がそのことをエッセイに書いた。それを久保田の遺稿集『聖夜の燭』(日進堂)から転載する。

  山 茶 花



魔孤が死んだ、といっても魔孤を知る少数の者のほかには通じまい。
けれども暮夜、酒に酔いしれて、そうろうと巷をさすらう弊衣ほう鬼の大男をときに見かけた人もあろうかと思われる。
昭和39年11月27日午前9時、篠田魔孤は57年の生涯を閉じた。
上郷村の名家に生まれ、名家に生まれたことがすでに魔孤の反逆精神の遠因となり、親からもらった折り目のついた本名の信義を、魔孤などとすね者らしいペンネームに変えて、彼の精神的放浪がはじまり、文学と絵画に傾倒した時期は比較的長かったが、終りには芸術にも背を向けるがごとき、言動を見せ、野底の山小屋にひとり起き伏して、ときに町へ下りては安酒をあおって酔いしれていたのである。
魔孤の死ぬ前日、すなわち26日の午後2時ごろ、大槻四郎君は魔孤の訪問をうけた。魔孤は山茶花の一枝を大槻君に呈し、1時間あまり話して帰ったという。
すでに酔っていて肩のあたりが、いつになく淋しげに見えたので、大槻君が別れぎわに500円渡したそうである。
魔孤はその足で多分、桜町の駅前あたりで一杯ひっかけるかしてから、ふらりと電車に乗って上片桐の次兄の家を訪ねたと思われた。
兄の家でその晩泊って翌朝9時近く、ふたたび飯田へ帰ろうとして兄の家を出るとすぐ倒れて、そのまま、事きれたという。
心臓マヒであった。
魔孤は今までに何度も死にそこなった。野底の橋から落ちたとき、柏原の沼にはまり込んだとき、大宮神社の石段からころげ落ちたとき、さいわいいずれも無事だった。
ただ一度、工事中の深いみぞに落ち込んだときはさすがに鼻の骨を折った。
魔孤の、あのたぐいまれな立派な鼻が途中で段がつき、いくぶん形を損じたのは、そのせいである。いずれも酔っ払ったすえの事故であった。
まるで正体なく酔いしれて、あれでよくもまっ暗い夜道を無事に山小屋へ帰れたものと、それがむしろ不思議に思われたほどである。27日の夕方、矢島君と横田君とが揃ってきて魔弧の死を知らされたとき、とっさに私は事故死、と思った。先年の集中豪雨の際、魔弧が野底川の洪水に小屋ごと呑まれて死んだといううわさがとんだ。小屋はたしかにあとかたなく流されたが、魔弧はランプと絵の具箱と、両手で持てるだけの家財をさげて本家へ避難した。
誰がまいたうわさかは知らなかったが、魔弧が泥酔のまま濁流にさらわれたという極めておざなりな推量から発したものに違いなかった。
石井深三郎老は、うわさをまにうけて力をおとした。のちになって石井老は、魔弧は長生きするよ、一度死んだからね、といった。石井さんの予言はついにあたらなかった。魔弧の葬式の日の夕焼けは実にきれいだった。魔弧の棺は派手なむらさき色の布におおわれ、耕運機に載せられ、ばたばたと音をたてて動き出した。白い旗がひらひらと風になびき、ひとかたまりの葬列が続いた。
式が終り、私達なまず会は山小屋の魔弧庵へ集まって、がぶがぶ酒を呑んだ。すでに夕暮れが濃く、暗い中で無暗に大声でわめき散しながら、酔わなかった。ひとりが立って荒城の月を唄い出した。なまず会の集りで荒城の月の合唱は、恒例のことであった。みんな立ち上がって合唱がはじまり、3番の、天上影は変らねど栄枯は移る世の姿、というところへきて、横田君がのどをつまらせ、それにつられて幾人かが声をあげて泣きだした。私はひとり小屋をぬけ出して枯草の中へゆっくり時間をかけて小便をした。

 魔弧さんの死を綴った「山茶花」の全文である。著者の久保田創二は、魔弧さんが亡くなった24日後の昭和39年12月20日に交通事故で亡くなった。53歳だった。『聖夜の燭』に付された年譜には、ほかに「夕焼の魔弧」という追悼文があるとのことだが、私は未見。久保田は俳人として飯田市では著名で、遺稿集『聖夜の燭』も久保田の俳句とエッセイを集めたもの。標題は絶句から採られている。

     絶  句



オ ル ガ ン に ゆ だ ね て 展 ぶ る 聖 夜 の 譜


蝋 涙 の 流 れ そ め け り 聖 夜 の 燭

 私には久保田の息子さんから山本弘(わが師)を詠んだものではないかと教えられた句で久保田創二を知った。その句、

死 な ば 十 代 帰 燕 せ つ な き 高 さ 飛 ぶ

 久保田の文中の「上郷村」は現在長野県飯田市上郷、「先年の集中豪雨」とは昭和36年6月の飯田伊那地方を襲った集中豪雨のこと。「なまず会」については不明。
 篠田魔弧については、いつか飯田市美術博物館で遺作展が開かれることを強く希望する。