帰燕せつなき高さ飛ぶ


 月曜日26日から東京渋谷の道玄坂ギャラリーで山本弘展が始まる。(7月2日まで)。もう10年以上前、ギャラリー汲美での個展のために書いた山本弘の思い出の文章を再録する。


帰燕せつなき高さ飛ぶ――山本弘、わが敬愛する画家の思い出――

                                 


 山本弘に初めて会った時、坂口安吾の「堕落論」を読めと言われた。私が19歳、山本さんが37歳だった。美人の奥さん(愛子さん)はまだ26歳。もう36年前になる。
 ぼくは弟子はとらないから先生と呼ぶなと言われた。それで亡くなるまで山本さんと呼んでいた。私が山本弘に師事したというと絵を習ったのかと聞かれる。いいえ、絵は描きません、酒を教わったのです。
 山本家を訪うとお茶代わりに朝から酒が出た。それも一升瓶のウイスキーで茶飲み茶碗になみなみと注がれた。もちろんチェーサーなんて出なくて、ストレートで茶碗酒のウイスキーを飲んだのだった。あんたは山本さんにお酒を教わったからとカミさんが言う、つまみを食べずにぐいぐい飲んで寝てしまう。不器用な飲み方ねえ。
 朝から飲んで真っ赤な顔をした弟子をつれて先生は町に繰り出す。友人やら知人やらが勤める会社や商店に顔を出す。
 魚問屋の専務に紹介される。吉行淳之介の「砂の上の植物群」は男女の三角関係の構図を取っているが、あれは本当は作家と父親と国家の三角関係なのだ。これに気づいたのはぼくだけだよ。詩を書くなら片桐ユズルの「意味論入門」とS.I.ハヤカワの「思考と行動における言語」を読まなきゃいけない。ああ、本当に山本さんの友人はインテリだ。
 デッサンは練習すればうまくなる。色彩は天分だ。ぼくは色彩がいいんだ。ぼくは白がすごいんだ。山本さんの白は本当にすばらしい。こんな書もある。「白は責むる 白は魂をして凍結せしむる」
 ある日山本家を訪うと愛子さんが「あなたを描いたみたいよ」と言う。今は飯田市立美術博物館に収蔵されているその絵は真っ黒な人物の半身像で、最近その絵の写真を会社の女性に見せると、ひと言「ゾンビ」。なるほど頭上には黒雲がたなびき、黒く塗りつぶされた顔は正面を向いているのか横向きなのかも分からない。たしか2浪が決まったころで、ああ、あの頃の私はゾンビだったのだろう。それを的確に捉えて描くなんてやっぱり山本弘はただ者ではない。

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 面白おかしく語られる数々の自殺体験は、その実きわめて悲惨なものばかりだ。しかし山本さんは一体何回自殺を試みたのだろう。なぜそんなに死を願望したのか。
 初めての自殺未遂がいつだったのか。16歳の時(昭和21年)ベルトで首をくくったがベルトが切れて失敗した。翌年、猫いらずを飲んで死に損なう。続いてすぐに今度はノミやシラミの駆除で出回っていた殺虫剤DDTの白い粉を御飯茶碗一杯食べて腹痛を起こす。覚醒剤代わりになるんじゃないかと思ったんだよ、酔いたかったんだ。
18歳の7月、自殺をほのめかし失踪する。また8月には友人たちに借金の返済を迫られ、いつもの自殺が狂言ではないかと問いつめられる。ダムに飛び込むことを約束した山本は、泳ぎがうまいからとまず焼酎1升を一気にラッパ飲みさせられ、しばらくして十分酔いが回ってから宮田村伊那峡ダムへ飛び込む。しかしはるか離れた対岸へ泳ぎ着いてこの時も生還した。
このころヒロポン中毒に苦しみ、飯田市のすべての薬局にツケが貯まってもうどこからも買うことができなくなり、それでなくても重症の患者で、ヒロポンを使えば眠くならなくなるのが普通なのにもうヒロポンを飲まないと眠れなくなっていた。
 18歳の11月、自宅で青酸カリを飲んだ。嚥下した猛毒が食道を焼きながら下がっていくのが分かるんだよ。ラジオの音がすうっと消えていって意識がなくなった。お母さんが気づいてすぐに医者を呼び、医者が注射をしてもう手遅れですと言ったのに、お母さんの懇願を入れてさらに注射をすると覚醒した。そこで嘔吐すると畳の色が変わった。
その後も友人たちに自殺癖を狂言と責められ、ジャックナイフを太股に突き立てた。血が天井まで飛び散った。愛子さんも太股に傷跡があったことを認めている。
 山本さんの友人で俳人の久保田創二に次のような句がある。これは山本弘のことを詠んでいるのかもしれないと、その息子さんが教えてくれた。たしかに山本さんを詠んだものにちがいない。


  死 な ば 十 代 帰 燕 せ つ な き 高 さ 飛 ぶ


 帰燕は南に帰る燕、秋の季語。十代でついに死ぬことができず生き延びたその後の山本弘を「せつなき高さ飛ぶ」と詠んだこの句は秀逸だ。
なぜ自殺未遂を繰り返したのか。15歳の昭和20年4月に海軍2種飛行予科練習生(予科連)に入隊している。2カ月で逃げ帰ったというが、譴責を受けたという話を聞かないのは終戦のどさくさにまぎれてうやむやになったのか。この予科練への入隊と逃亡、その後の日本の敗戦が山本弘をニヒリストにしたのだろうか。予科練への志願から皇国少年を思い浮かべ、予科練での幻滅かまたは終戦山本弘の価値観を混乱させ虚無に駆り立てたのかもしれない。

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 そのように自殺未遂を繰り返すうちにも17歳で全信州美術展特選になり、子どもの頃からうまかった絵に対する自信を深めていく。18歳で造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)に入学する。この時入学資格として旧制中学卒業でなければならないと思いこんだ山本は偽の卒業証明書を捏造する。印鑑を偽造するのがうまかったと友人の長沼計司さんが言っていた。武蔵美の教務課に残っている記録には、山本弘の出身中学が架空の名古屋市立和田中学校四修となっている。
 東京では贋作で有名な画家滝川太郎に師事し、書生として住み込むがここも逃げ出した。人使いが荒く爪がすり減るほど墨を摺らされたよ。
 高円寺や阿佐ヶ谷あたりにいたと聞いたことがあり、昭和30年の私立菊華高等学校で開かれた第1回杉並美術展に1点の油彩を出品している。その時の作品目録には他に画家の池田龍雄さんや小山田二郎・チカエさんらの名前もあり、1995年に開かれた東京での第2回遺作展に来られた池田さんがカタログの山本の写真を見て、俺は彼を知っているよ、それも顔見知りという程度ではなく一緒に酒を飲んでいた記憶がある。中央線沿線で飲んでいた頃だと言われた。
 この前後、東京を引き払い飯田へ帰った模様。
 飯田では代用教員をしたり山仕事をしていたと聞く。もちろん絵は描いていて昭和30年25歳のとき日本美術会飯田支部結成に参加し、東京都美術館日本アンデパンダン展や平和美術展にも出品している。
 昭和33年28歳の8月、飯田市公民館での第1回個展は35点を展示してほとんどを完売した。個展終了後、絵の代金を懐に後片付けを後輩らに託してさっさと旅行に行ってしまった。この時の個展慰労会出席名簿には遠山村出身の明治大学学生後藤総一郎の名前も見える。おそらく昨年亡くなった明治大学教授で民俗学者の後藤さんだろう。
 昭和36年6月に飯田伊那地方を襲った集中豪雨(36.6災害)の後に、友人の遠山望さんと北軽井沢の照月湖に行き避暑客相手の土産物屋の店員をしたときも似たようなことがあった。遠山さんによれば、山本弘らは楽焼を作って売っていたが、彼が絵付けをした楽焼は避暑客の奥様連中や外人客に高値でよく売れたという。シーズンが終わって帰りのバスに乗り込む寸前店の女あるじに捕まえられ、くすねた売上を返せと言われた。ふん、仕方ないとポケットから札束を差し出したというが、松本へ着いたとき残念だったなという遠山へ、大丈夫といってもうひとつの札束を差し出したという。
 この集中豪雨のときの体験は山本に強い印象を与えたらしく、飯田を流れる小さな野底川の、普段とは一変したすさまじい氾濫の情景がその後繰り返し絵のモチーフとなって現れる。

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 デッサンは勉強すればうまくなると言っていた山本だが、若い頃のデッサンは本当に見事で、当時付き合っていた女性を描いたものなどは、彼女への思いがいきいきとした線で表現されていて、デッサン力もやはり才能ではないかと思わされる。
 しかし酒びたりの生活がたたったのか、36歳頃、結婚するしばらく前に脳血栓を発病し、手足の不自由と言語障害を起こすことになる。繊細な線を引くことはもうできなくなり、デッサンもタッチも荒々しくなった。それから本当の山本弘の絵が始まる。筆が走りすぎると言われたかつてのビュッフェ風の絵から、中期の大作「行列」のような象徴的な絵が登場する。
 そして思い出す。昭和47年の日本アンデパンダン展に山本が出品したのは「ひだまり」という50号の絵。二つの白壁が作る隅が日だまりになっていて少女がひとり日向ぼっこをしている。着ているものから季節が冬だと分かる。白壁の白の微妙な色合いに囲まれてこの子の衣服はなんと言う美しさか。山本がカラリストであることが誰にも納得できる色彩。
 展覧会終了後山本は見知らぬ人からこの絵を10万円で買いたいと連絡を受ける。俺の絵は売り物ではない。ああ、山本の面目躍如だ。もう本当に悲しかったと愛子さん。ちょうどこのころ入社した私の初任給が43,000円だったのだから、この10万円は今の50万円近くか。この絵は今どこにあるかも分からない。たぶん酒か絵の具代に困った山本が只同然の値段で手放したのだ。いつもそうだった。
 その少し前、アメリカで黒人暴動が続き、アメリカの熱い夏と言われた年、山本は「黒い鳥」と題する30号の絵を描き、やはり日本アンデパンダン展に出品した後在住していた上郷町の町長室に寄贈する。画面いっぱいに足を踏ん張った黒い鳥が描かれ、鳥は天を仰いで大きく開いた口から血を吐いている。これは黒人暴動を描いたんだよ。
漁場を奪われた漁民のニュースを見た後は「暗い海」という作品が生まれた。群青の海を背景に横顔の男が大きく口を開けている。それは威嚇ではなく悲しみだ。
 いつも弱いもの、崩れそうなもの、壊れそうなものを美しく描いた。それらが本当は美しいものであると言っているようだ。おそらく山本さん自身なのだろう.。そしてなんと言っても一番美しい絵は愛子さんを描いたものだ。少しモジリアニを思わせる女性像は色彩画家の能力を少しも屈折させることなく全開して描いている。無理もない、結婚前の恋愛中に描いたものだからだ。あんな色彩のきれいな絵はほとんど見たことがない。しかし、それはもう無い。山本が焼いてしまったからだ。夫婦喧嘩のたびに愛子さんは実家へ逃げ帰る、すると必ず嫌がらせに彼女が大切にしているものを破壊するのだ。それが自分の傑作でも。
山本は長谷川利行が好きだった。友人にもらった長谷川の大判の画集を持っていた。2、3年前東京ステーションギャラリー長谷川利行展を見た。驚いたのは山本が長谷川と同じモチーフでいくつかの作品を作っていたことだ。乳牛の絵や黄色い顔の女。だがモチーフは同じでも山本の方がはるかに優れている。長谷川は色彩に優れているが構成が弱い。特に大作にその欠点が現れているが、山本は色彩にもっと優れさらに構成が力強い。

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 昭和46年同じ上郷町別府上つつみ下の2間あるアパートへ引っ越す。いままでわずか6畳一間に夫婦と猫1匹で住んでいたのだ。ようやくアトリエが確保される。地名のようにアパートのすぐ横に大きな沼、堤(つつみ)があった。堤のほとりには石の水神様が鎮座していて、江戸時代近くの郭の女郎が身投げしたとの言い伝えがある。この堤も水神も繰り返し作品のモチーフになっている。
 この年長女湘(しょう)が生まれる。この名は帝尭の二人の娘がともに帝舜の后になり、舜が亡くなったときそれを悲しんで湘江に飛び込み、洞庭湖の女神湘君になった故事から採ったのだという。夫婦喧嘩の時の愛子さんへの暴力は変わらないが、結婚した後は本気での自殺行為はなくなったのではないか。湘ちゃんへの愛情は世の親と選ぶところがない。むしろ溺愛ではなかったか。
飯田市内の公共施設の広い会場で何度も個展を繰り返した。絵はますます抽象度を強め、飯田ではほとんど理解されることがなくなった。そして東京などで発表するには山本はあまりに貧しかった。
 愛子さんが働くのも良しとしなかった山本家はどうやって食べていたのだろう。絵はまともには売れなかった。時々色紙を描いてそれを売っていた。河童の色紙が人気があってたくさん描いたらしい。飯田では今でも山本のことを「河童の絵の弘さん」と思っている人が多い。ほかの人はただのアル中の飲んだくれの画家と思っている。
 それでも飯田市立美術博物館には山本弘の絵が50点以上収蔵されている。この内44点は山本弘没後10年の1991年に愛子さんが寄贈したものだ。正確には美術館から無償での寄贈を要望されて愛子さんが応じたもの。代表作である後期の100号の作品も数点収まっている。その年の新収蔵品展でたしか13点が展示され、その2、3年後に須田剋太との二人展という形でやはり18点が展示された。
 もちろん常設などはなくて、年に1回「郷土の洋画家たち」という企画展に1点だけ展示される。ぜひ個展を企画してほしいと希望を述べたが、美術館は市民の税金で運営されている、山本さんの個展に税金を使ったら市民が納得しないだろう。なんであんなアル中の酔っぱらいのために税金を使わなければならないのか。
 何度も何度も自殺未遂を繰り返してきたが最後にただ一度だけ成功する。1981年7月15日、妻子を実家へ帰して一人のアパートで、二段ベッドの上の段に紐を結んで座ったまま縊死した。亡くなって数日後に愛子さんによって発見される。享年51歳。
 その3カ月前にアル中治療のため1年以上入院していた飯田病院から退院してきたばかりだった。絶筆は30号の愛子像。
 亡くなって今年で23年、生きていたら74歳になる。山本さん、私はあなたが好きだ。あなたに会えて良かった。   
                                (2004年3月記)                      

 文中、「予科練に入隊した」と書いたが、その後未亡人に頼んで厚生労働省に問い合わせてもらったら、予科練に入隊した記録はなかった。亡くなって今年で37年、生きていたら87歳になる。
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山本弘
2017年6月26日(月)−7月2日(日)
11:00−18:00(最終日16:00まで)
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アートギャラリー道玄坂
東京都渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂102
電話03-5728-2101
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