3紙の『献灯使』の書評

 多和田葉子『献灯使』(講談社)の書評が3大紙に掲載された。毎日新聞鴻巣友季子(2014年11月9日)、朝日新聞佐々木敦(2014年12月14日)、読売新聞=本田有希子(2015年1月4日)。3大紙が揃って書評に取り上げたのは私が気づかないだけでまだまだあるのだろうけれど、2000年に翻訳発行されたベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社)がそうだったことを思い出す。
 まず鴻巣友季子毎日新聞)から、

 未来小説は未来のことを書いたものではないし、歴史小説は過去のことを書いたものではない。どちらも、今ここにあるもの、ありながらよく見えていないものを、時空間や枠組みをずらすことで、よく見えるように描きだした「現在小説」である。
 帯にデストピア文学と謳われているとおり、反ユートピア文学の王道を行く要素も多々ある。管理・監視社会、大半の外来語と翻訳小説出版の禁止、芸術活動の規制、人々の感情・感覚の希薄さ、ジョージ・オーウェルばりの新語・造語の使用。政府は始終、好き勝手に法律をいじる。いつなにが法に抵触するか知れず、空想を書いた小説も「国家機密を漏らした」として逮捕されるのを恐れて、義郎は書きあぐねる。想像力さえ罪。しかしこうしたことも、現に特定秘密保護法のもとでは、起こりうる事態ではないか。(中略)
 笑いの爆竹に躍り、不穏の暗い淵に慄き、読むうちに顔は涙でぐちゃぐちゃになるが、それが笑いの涙なんだか、恐怖の涙なんだか、ああ、もうわからない。

 ついで佐々木敦朝日新聞)の評、

 本書収録の「不死の島」を最初に読んだときの、深く暗い深淵にたたき落とされるような衝撃は、今も忘れられない。東日本大震災原発事故以後の時間に小説家たちがどう対峙するかをテーマとしたアンソロジーに、長年ドイツ在住の多和田葉子が書き送った、ごく短い作品は、それ自体が彼女がこの出来事から受け取った衝撃の強さを物語っていた。多和田が行ったのは一種の予言だった。それもこの上なく不吉な。小説家の想像力とはこれほどまでに鋭く厳しくあり得るのかと、そこに描かれた異様な光景に震えを抑えることができなかった。(中略)
 多和田は日本に生まれた日本人で、日本語で小説を書いている。だが彼女はベルリンに住んでおり、ドイツ語でも作品を発表している。そんな二重の存在だからこそ、日本語と日本人と日本のおそるべき未来を描いた、こんな小説を書くことが出来たのだと思う。これは予言だと先に述べた。そんなことはない、あくまで小説でありフィクションだ、そう思うのは勝手だ。だがそう思う人だって、この本を最後まで冷静に読むことは出来まい。

 最後に今年になって掲載された本谷有希子(読売新聞)から、

(前略)近未来の日本を描いた表題作『献灯使』も、互いに理解しあうことのない人間同士の話だが、その溝は更に深い。何しろ108歳になりますます元気になっていく義郎は、生まれつき体の弱い曽孫の無名が不憫で仕方がない。無名の世代の子供達は大災厄のあとに生まれ、鎖国する前の日本のことを一切知らない。(中略)
 多和田さんは目を背けている現実を痛烈に突きつけてくる。私が中でもはっとしたのは、義郎が泣かずにいられないほど絶望的だと感じた朝。その朝を、うまくズボンをはくことすらできない無名が「めぐりくる度に、みずみずしく、楽しい」と独白するシーンだ。
(中略)ますますわだかまってしまうのに、とんでもなくいい小説だと思う。

 本谷は作家で劇作家と紹介されている。今年から読売新聞の書評委員に選ばれて、これが最初のデビューになる。慣れていないのは仕方がない。
 3大紙に取り上げらた『朗読者』はたしかに誰が読んでも面白い小説だった。それに比べてこの『献灯使』は一般受けするような内容ではない。前者との大きな違いは、本書が玄人受けする作品だということだろう。書評者がみな高く評価していてそれはその通りなのだが、ひとつ小説の構造として特異な点がある。常識的な小説の形式からずれていることだ。ずらしていると言っていいだろう。そのことを誰も指摘していない。
 多和田は小説的な完成形を目指していない。すると多くの読者は戸惑ってしまうだろう。もとよりそれは多和田の予定しているところなのだろうが。そう書きながら私も多和田の志向する方向がよく分からない。それを分析している書評があったら知りたいと思う。魅力的な作品であることは確かなのだから。


献灯使

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