多和田葉子『献灯使』を読む

 多和田葉子『献灯使』(講談社)を読む。帯に「デストピア文学の傑作! 震災後のいつかの日本。」と書かれている。続けて「鎖国を続ける「日本」では老人は百歳を過ぎても健康で、子供たちは学校まで歩く体力もない――――子供たちに託された未来とは? 未曽有の”超現実”近未来小説集。」とある。
 鴻巣友季子毎日新聞に書評を書いている(11月9日)。

 『献灯使』の標題作は、甚大な災害(原発事故)による環境汚染を被った日本。超高齢化社会で、主人公の作家「義郎(よしろう)」はもうすぐ108歳、幼い曽孫の「無名」とふたり暮らしだ。子供たちは汚染による虚弱体質で、物もろくに噛めない一方、老人たちの体はびくともせず、子孫を看取る運命にある。早すぎる死と、理不尽な不死身が同居する世界。自らは絶えざる生を背負い、自らの死後に続く生を想像できないとは、二重の残酷さである。

 ある種の秩序はありながら、政府は始終法律を変えている。ネットは廃止され、管理と監視の社会となっている。希望はないかのようだ。しかし作者は作中にユーモアをばらまいている。「診断」が「死んだ」と響きが似ているため「定期診断」という言葉は使われなくなり、「月の見立て」と呼ぶ医者が増えてきたとか。さらに「敬老の日」と「こどもの日」は名前が変わって、「老人がんばれの日」と「子供に謝る日」になり、「勤労感謝の日」は働きたくても働けない若い人を傷つけないために「生きているだけでいいのよの日」になった。インターネットがなくなった日を祝う「御婦裸淫の日」というのはふざけすぎとも思えるほどだ。
 これはほとんどSFの世界だ。SFの世界ではありながらSF小説としての完成度は高くない。いや志向している世界が違うのだ。多和田はSF小説を書くつもりはないだろう。そもそも普通の意味の小説とも違っている。芥川賞を受賞した初期の作品「犬婿入り」からすでに「変わった小説」を書いていた。その普通の意味の小説という観点からみたら、『献灯使』は成功作とは言えないだろう。綻びがあるような終わり方をしている。それは多和田が完成されたような小説の形を採ろうとしていないからだ。
 そう書きながら、私は多和田がどの方向を目指しているのか指摘することができない。不思議な小説だ。ちょっとだけ以前フランスで流行ったヌーヴォー・ロマンを連想した。
 本書にはもう一つ、変わった点がある。本文と直接は関係しないカラー挿絵が見開きで3葉も使われているのだ。表紙も同じ画家の作品が使われている。表紙がハシビロコウ、挿絵はワニとミイラの恐竜とサンショウウオだ。画家の名前は堀江栞、昨年東京京橋の加島美術で初個展をした若い画家だ。その個展を見た編集者が提案して表紙に採用されたのだろうが、挿絵にまで多用されたのは多和田が気に入ってそれを希望したからに相違ない。本文に直接関係しないと書いたが、ここに取り上げられた動物たちの印象は確かに『献灯使』の世界と無縁ではない。多和田の不思議な世界と響き合っているのが納得できるのだ。


献灯使

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