日本橋の福徳神社が再興された




 日本橋三越前に三井グループ系のコレドができ、その一帯の再開発に伴って古い神社が整備された。コレドの裏手に小さいが立派な神社が作られて、名前を福徳神社という。この福徳神社の由緒が石版に彫られていた。

当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、9世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道潅との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康天正18年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長19年に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当地の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を330坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成26年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往事の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った。

 もう20年以上前、福徳神社はこの近くの古ぼけたビルの屋上のような2階の隅に上げられていて、小さくてみすぼらしい氏神様みたいな姿だった。外に付けられた階段を登って参詣するのだが、たまに私が行っても誰にも会ったことはなかった。信心深い私は何度か階段を登って参詣したのだった。その当時と比べて隔世の感があると、私も福徳稲荷さんもこの頃思っている。
 なお、椚は櫟と同じ「くぬぎ」と読む。