金井美恵子のエッセイ『待つこと、忘れること?』を読んで

 金井美恵子『待つこと、忘れること?』(平凡社)を読む。平凡社発行のいくつかの雑誌に連載した料理に関するエッセイをまとめたもの。いくつかの雑誌というのは、『ヴィオラ』『太陽』『月刊百科』などで、それぞれが休刊(=廃刊)になったため別の雑誌に移動したのだと書いている。
 いつも通りの金井美恵子の皮肉の効いたエッセイを読むことができる。

(……)パンと言えば、ルイス・ブニュエルドキュメンタリー映画『糧なき土地』では、30年代スペインの極貧の山村の子供は学校の給食で配られる堅い堅いパンを、チョロチョロと流れる不潔な川の水に浸して柔らかくして食べるのでした。家に持って帰ると、親に取りあげられて、自分が食べられなくなってしまうからです。
 今年のあまりの暑さと9月に入ってもまだまだ続く残暑で、食欲も無いところへもってきて、短い原稿を書くというハンパな賃仕事をしておりますと、こういうことを思い出してしまいます。

 この「ハンパな賃仕事」と書くところが金井の面目躍如だ。
 母親について、

 マルグリット・デュラスが何かのインタヴューで言っていたとおり、御多分にもれず、口うるさくて自分勝手で、訳のわからないことを言いつのって、子供にとっちゃ、母親はみなキチガイよ、誰でも嬉しそうに、自分の母親はキチガイだったと言う、と語っていましたが、まったく、そのとおりで、思い出すと、今でも姉と二人、頭にきて、にくったらしい女だったよね、と言いあうことがあるくらいなのですが、ま、料理の味に関しては、親の恩があるかなあ、という気もしますし、もう少し細かいことをちゃんと学んでおけばよかった、と思うこともなくはないものの、もっと長生きしてほしかった、という気はありません。
 友達や知人のお母さんが亡くなった、という話を聞くと、つい、よかったじゃない、ほっとしたでしょう、と祝福したくなるのですが、まさか、そうはっきりは言えない場合も多いのです。

 本書は料理を主題にしたエッセイなので、初めてズイキを食べる話も出てくる。その枕にゴダールが振られる。

 夏のはじめに『ゴダールの映画史』を見て、同じ日の夕方、知人の招待で、無国籍風レストランで食事を御馳走になった時、メニューに「白ズイキのサラダ」というのが載っていたのでした。ヴィデオではもちろん見ていた『ゴダールの映画史』なのですが、ロビーで時間を待っていると、上映が終ってドアが開き、浮かぬ顔で暗い表情の若者がぞろぞろ出て来て、それはもちろん当然のことで、『ゴダールの映画史』には、彼等の見たことも聞いたこともない映画のシーンが次々と説明抜きで知らないのが悪いのだという調子で、映し出されるのですから、無理もないのです。処女作の『勝手にしやがれ』を中学の時に見て以来だから、ゴダールとのつきあいも、かれこれ37、8年か、ということは、ようするに、一番、長い間見続けてきた現役の映画作家ということになるわけだ、と、いささか驚いたのですが、それはともかく、53年間食べずにいたズイキです。

 ズイキを初めて食べた金井は、「どうして半世紀もの間、自分はこれを食べずにアジアのヤムイモ系食文化圏で生活していたのだろう、と、あれやこれや、とつこうつ、考えてしまった程の、新しい食感の発見なのでした」と書く。ズイキについては私は子供の頃から食卓に上って身近な食材ではあったが、大人になってから、それが日本古来からの性具になることも知ったのだった。いや知識として知っているだけで、知識としてはどのように使うのかも知ってはいるが、もちろん自分では一度も使ったことはないし、そもそも性具としてのズイキも実物は見たことがないのだった。そして、そんな使用法があることを金井はおそらく知らないだろう。知っていれば仄めかすことくらいはしたと思う。
 私は実はやっと3カ月前から自炊を始めたばかりなので、本書が料理のレシピとして、意外に役に立ちそうなことを発見した。金井は長年お姉さんと二人暮らしをしているので、料理に関してはメニューも豊富で手際も良さそうだ。
 金井が気持悪いと言っているおやじのマッチョ料理の『檀流クッキング』のような、金井姉妹の料理本を書いてくれるといいのに。


待つこと、忘れること?

待つこと、忘れること?