金井美恵子『小説を読む、ことばを書く』を読む

 金井美恵子『小説を読む、ことばを書く』(平凡社)を読む。これは「金井美恵子エッセイ・コレクション」の3巻目になる。エッセイにおいて金井は徹底して辛辣だ。「岡本かの子覚書」において、

(……)たとえば、丸谷才一氏が、この文章に対して「力を見せるためには何もこれほど大仰にどなりちらす必要はあるまいと、わたしは顔をしかめるのである。一言で言えば、この文章は騒々しい。」などとおちょぼ口でいくら顔をしかめても、ここで岡本かの子は降り注ぐ言葉の暴力的な光輝を浴び〈木の根、岩角にも肉体をこすりつけたいやうな、現実と非現実の間のよれよれの肉情のショックに堪へ切れないほど〉でいるのだ。

 何もここで「おちょぼ口で」などと言わなくても思ってしまう。
 「『死の棘』を読む」では奥野健男が槍玉に挙げられる。

 たとえば、奥野健男のようなまれにみる無邪気な読者は、「この『死の棘』を読んだ者は誰でも思わず自分の家庭そして夫婦をかえりみ」ることになるだろうし、「自分たちの日常生活、心の中、そして夫婦喧嘩の中に『死の棘』に書かれていると同じ要素を発見し、もしこうなったらと慄然たる気持ちになるに違いない。」と感想を書きつける。

奥野健男のようなまれにみる無邪気な読者」にも毒が感じられる。
「小説家と批評 大岡昇平」では、

 大岡昇平は、戦後生れの私より若い小説家や批評家たちに、どのくらい読まれているのでしょうか。(中略)奥泉光さんが全集の月報で『レイテ戦記』のことを書いていましたし、これは何が言いたいんだか、例によってさっぱりわからないんだけど、島田雅彦さんも大岡昇平という名前を口にする。読んでいるかどうかは別ですけど、ま、名前は知っているんだということはわかった(笑)。

 金井は島田雅彦にはいつも辛口だ。
「繊細なせこさ」から、

 しかし、そうした全てのジャンルを通じて、何がそれでは、「東海林さだお的世界」なのかといえば、私としては、前述の〈繊細なせこさ〉という言葉をあげてみたいのだ。
〈繊細なせこさ〉なのであって、断じて〈せこい繊細さ〉とは違うのである。
〈せこい繊細さ〉というのは、たとえば、小林秀雄から「天声人語」にいたるまでの感性である。
〈繊細なせこさ〉とは、ロラン・バルトから東海林さだおにいたる系列である。

 伊丹十三の『タンポポ』という映画に、東海林さだおのラーメンの食べ方についてのエッセイが引用されているのだが、東海林さだおの文章で読んでいる時の、どこか奇妙に片寄って滑稽な事大主義的な書き方がそそる食欲と作者のラーメンへの愛情と、しかし、なんだかんだといってもラーメンなどに、あの店が絶品この店は最高などという差異があるはずがない、という実に正確で明晰な作者の実感が、何もかも失われてしまっていたのは、それがはっきりと〈才能〉の差に由来するものであるのが明白であるとは言え、唖然とさせられたものだった。

 最後にまた島田雅彦が完膚無きまでに徹底的にコケにされる。まず、そのエッセイの長い題名だけを引用すると、

「『風流夢譚』の出版自体は罪ではないし、言論の自由として認められるべきだが、出版によって起こり得る自体を想定しなかったことは責められる」と、島田雅彦は書いた

 その内容について金井は厳しく追及する。島田雅彦『彗星の住人』に関する雑誌『波』誌上での対談の島田の発言に、次のようなところがある。

(……)「これ読めば不二子が誰かぐらい一発でわかるだろう」と思って〈書いていたが〉、これまで受けた何件かの取材でも、意外に、「誰ですか」なんて反応で……。(中略)わかって〈欲しいんだが〉、自分から種明かしもできない。でも、この件について無視されるというのが一番嫌だ。(後略)

 これを引用した後で金井が書く。

 という思わせぶりな発言で、発言の内容は読んでの通りなのだから、説明も不用で、不二子というヒロインが、実在であるなしに関係なく皇太子妃であることは、メディアが指摘するより前に、島田が入魂の自信作として自慢していたことなのだけれども、そんなことはともかく、信じ難いのが、東京近郊の団地に1961年に生まれて育ったはずの島田の言葉づかいで、引用文中の傍点(ここでは〈 〉とした=引用者)の「が」の使用法は、星飛雄馬のオヤジか自民党の首相をはじめとした男の大臣か石原慎太郎といったタイプの人物の発言の中でしか、眼にしたことがない。わかって欲しいんだが、と来たら、種明かしもできん、とすべきであり、できない、と結ぶのなら、欲しいんだけれど、か、欲しいんですけど、と言うべきであり、言葉のセンスも馬鹿みたい。

 金井は、もちろん他の作家に罵詈雑言を浴びせるだけではなく、評価すべきはきっちりと評価する。深沢七郎を論じた「たとえば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」では、優れた作品として深沢七郎大江健三郎が紹介される。

『風流夢譚』と『政治少年死す』がひきおこしたとされる事件(一つは殺人、もう一つは作者への右翼による脅迫)についてはここでは語らないが(中略)、和歌についての批評的小説(解釈されるおん歌の「意味」の不気味なまでの無内容ぶり!)でもある『風流夢譚』だけではなく(出版社で上梓する紙の本でいまだに読めないが、ネット上では、この2冊はむろん、自由に読めるが)、輝かしくも魅力的な小説『政治少年死す』もまた、皇室と天皇について語る以上は必然的に「和歌」について触れることになるのだが(この戦後派のセヴンティーンの右翼の−−今どきの言葉では落ちこぼれの−−少年〔なぜか言語的センスに驚異的に秀れた〕を語り手にした、大江健三郎の華麗でグロテスクな比喩とユーモアが炸裂する饒舌体の小説は、ポピュラー・ソング、詩、和歌、新聞や雑誌に載った実在の知識人や右翼や主婦や学生の言説の引用によって書かれた当時の日本の文学的状況の中で世界的文学水準に達した稀有の作品と呼ばれるべき強度を持っている)、それは次のようにである。(後略)

 大江健三郎『政治少年死す』は、いまだに印刷物としては自主規制されて出版されていないが、ネット上では読むことができる(私は未読だが)。
http://azure2004.sakura.ne.jp/k_oe/seijishonen.htm

 金井が辛辣に語ることに時に辟易しながらも、やはり好きな作家の第一であるのは、現代日本の作家たちの中できわだって名文家だと思うからだ。その名文の一端を「プーの森の外で−−石井桃子『幻の朱い実』」から、

 そうした作業によって幾つかの事実はあきらかになったものの、それは何一つあきらかにならないのと同然で、読者である私たちに残されるのは、濃密な滝のようになだれおちる赤と黄の何百という玉に飾られた優美な銀鎖りのような烏瓜と、淡々とゆるやかに波うつ豊かな長い髪とが、昭和7年から12年の間にとりかわした甘美で時に激しい憤りをひそめた「愛」と「友情」の細やかで具体的な雑草の持つ魅惑そのものなのだ。よるべない絶望の切実さと、よるべない甘美さに充ちた食物や、手作りの美しくあたたかい服や、美しくあたたかい服と同じようにその柔らかな毛並みで彼女たちをなぐさめたよるべのない猫や犬への愛情、あてどない書くことへの情熱が貪欲に求めた宛先きのある手紙、病に冒されながらも若い娘の肉体が賞味しつくす、肉や魚や野菜やスープやダンプリングやチーズやサンドウィッチの豊かで食欲をそそる健康な滋味、二人の若い娘たちの肉体に装われる洗練された趣味と実用性を兼ねた様々な衣類の材質や色彩や組み合わせと、それを作り上げるいささか陰気な努力と装う期待の楽しさと手作業の喜びが混じりあった優しい動作であり、なにより、そうした雑事をもう一度語り直し確かめる蕗子の貪欲な手紙の言葉だろう。

 以前、金井美恵子の別の文章を名文だと紹介したことがあった。
名文とは何か(2009年6月18日)