金井美恵子『映画、柔らかい肌。映画にさわる』から

 金井美恵子『映画、柔らかい肌。映画にさわる』(平凡社)を読んでいる。金井美恵子エッセイ・コレクションの4巻。そのIII章「女優=男優」から。
 いつもの長い構文が成功していて、きわめて長い文章なのに混乱することなく素直に読むことができ、官能的ですらある達意の文章で、これこそ金井美恵子の文体なのだという見本。

 印刷が汚いせいで、まるで新聞の「海外トピックス」に紹介される大きくて変な動物と美女の写真を見ているような気分にもなるアンドレ・バザンの『ジャン・ルノワール』に収められた2枚の撮影風景のスナップ風写真、1枚は『恋多き女』のイングリッド・バーグマンと一緒で、もう1枚は『黄金の馬車』のアンナ・マニャーニと一緒にジャン・ルノワールが写っている写真を見ると、この2人の女優がルノワールの映画に出演する以前、彼女たちの愛人であり夫であり、主演女優と監督の関係であったロベルト・ロッセリーニの撮影現場のスナップ写真の中で、彼女たちはどういう表情をしていたのだろうか、という思いが、ふと湧きもするのだが、白い絹のドレスの裾飾りのリボンの具合を、腰をかがめて直している丸々と太ったルノワールは、何か冗談でも言っているらしく、イングリッド・バーグマンは、ヒッチコックの映画でもロッセリーニの映画でも見せたことのない人の良さそうなおばさん顔で声を立てて笑っているように見え、一方、アンナ・マニャーニはカミーラの衣装を着、第一次大戦で負傷した脚の古傷が悪化しはじめていた頃らしくステッキを持ったルノワールの左腕に、とりすがるようにして、何かを囁くような、あるいは訴えるかのような、甘く、しかも真剣な表情を浮かべ、『ゲームの規則』では自ら熊の縫いぐるみを着てノラ・グレゴールを追い回していたのに、ヘリンボーンツイードのジャケットを着ているだけなのに熊のように見えるルノワールの丸顔のなかで閉じた唇は両端が上方に軽くつり上がっているので笑っているようにも、うなずいているようにも見えるのだが、右手が頭上の帽子をひょいと持って脱ぎかけているのは、アンナ・マニャーニの囁きが、何か礼儀正しく嬉しそうに「お礼」をいわなければならないような、そういった内容の囁きだったからなのかもしれない。

 これが句点一つだけの長い文章なのだ。
 さて、金井美恵子は歯に衣を着せない口調で誰もが言いにくい事柄をきっぱりと言い切る。

 『忍びの者』シリーズは、市川雷蔵主演で、62年から70年にかけて、山本薩夫(『忍びの者』、『続忍びの者』)、森一生(『新忍びの者』、『忍びの者 伊賀屋敷』、『忍びの者 新・霧隠才蔵』)、田中徳三(『忍びの者 霧隠才蔵』)、池広一夫(『忍びの者 続・霧隠才蔵』)と7作が撮られているのだが、現在LDで見られるのは、森一生の『新忍びの者』と山本薩夫池広一夫田中徳三の計5作である。(中略)
 続けて5作の『忍びの者』を見たのだが、それはむろん予想どおり、森一生の『新忍び者』が出色の出来映えで、他の4作は見つづけるのに、いささか努力がいる。
 それはたとえば、『時代小説の楽しみ』(新潮社)全12巻、74人の作家の1人3篇を集めたアンソロジーというものがあり、それを通読すると、74人の作家のなかでほんの何人かを除き、「大衆」という2文字が頭につくにしても、とても「小説」とは言えず、『オール讀物』という雑誌の誌名が「小説××」と「小説」を僭称しないところに好感を覚えてしまうほどだ、といったような感想を持ってしまうことに、少し事情が似ているような気がする。

 弘前市の近郊の小さな町、浪岡で開催する「なみおか映画祭」の2004年の小特集は山田五十鈴だった。金井は映画祭のプログラムに山田五十鈴について書くことになり、急遽ヴィデオで五十鈴の映画をたて続けに見返すことになった。

「なみおか映画祭」で上映される11本は、山田五十鈴映画女優としての歴史を一望できるプログラムとして構成されている。
 戦後の彼女が挑んだ汚れ役の代表作とされる女炭鉱夫を演じた『女一人大地を行く』(監督の、左翼だった亀井文夫との恋愛がこの映画の出演および資金出資の理由と、恋多き女として騒がれたのだった)や黒澤明の『どん底』(’57)が選ばれていないのも、センスの良さのあらわれで、改めて何度目かに見直してみると、戦後の五十鈴が最も素晴らしいのは、小津安二郎の『東京暮色』ではないだろうかという気がする。二人の娘と夫を置いて、若い男と家を飛び出し、今では別の男と暮らしている、複数の男と性的関係をもつ女が、戦後の小津作品に珍しく登場している、という意味でもこの映画は異様で、そして、小津が彼の映画では初めて出演させた女優、山田五十鈴の、あの複雑な感情でしなやかに微動する肉体と同じ強靭さをもつ〈眼〉がなかったら、撮られることがなかったように思える女性映画なのだ。

 幸田文の傑作『流れる』を原作にした成瀬己喜男の映画について、映画は原作より百倍も良いと言っている。

 おそらく、たいていの男の観客には、濃密な息苦しさを覚えさせるのかもしれない狭い小路にある芸者置屋という女だけの住む空間からほとんど外へ出ることはないのだが、置屋という空間の外部が暗示される時には「川」が映し出され、それはもちろん『流れる』というタイトルの映画なのだから、そこに川が登場するのは当然だし、原作者の幸田文にしてみれば――してみなくても――川と流れの意味するものが、行く川の流れは絶えずしてしかも元の水ではなく、流れに浮かぶうたかたが結びかつ消える、といった人生の比喩であることは先刻お互いに承知の上であることは言うまでもないとも言えるし、しかし、そうである以上に成瀬己喜男の『流れる』(’56)において「川」は、置屋のある下町の花街と外部を隔てるものとしてあらわれる、などと書きはじめてしまったのは、『流れる』を久しぶりに見て、つい気になって幸田文の原作を読みかえし、原作より、少なくみつもって百倍は素晴らしいことをまたもや確かめたせいかもしれない。

 金井美恵子ももうすでにおばさんだから、若い男からの冷たい視線を浴びることがある。

 書簡(「トリュフォーの手紙――ゴダールトリュフォー往復書簡」)の一部を読んでいて思い出したのが、ゴダールの映画を見に行った時に映画館で若い男から浴びる「お前らみたいなオバサンが、なんでゴダールなんか見に来るんだ、わかりゃしねえのに」という、いわれなき憎悪の視線である。私は心の中で、フン、お前たちの生まれる前の、こっちが12歳のときからゴダールを見てるんだよ、惰性で見続けているのに決ってるだろ、と言ってやるのである。

 12歳のときからゴダールを見ているなんてすごい! 私が初めてゴダールを見たのは高校3年のときの『軽蔑』だった。そういえば2、3年前おしゃれなカフェでエスプレッソを注文したら、カウンターの若い男から、これって量が少ないんですよと言われた。私も心の中で、フン、君が生まれる前からエスプレッソを飲んでいるよと答えたのだった。
 『軽蔑』といえば、次のIV章の「映画と批評の言葉」のなかに、ロメールの映画について、「しかし、セックスにしたところで、ゴダールのようにブリジット・バルドーの全裸を見せるといったビジネス感覚とは縁遠いし、トリュフォーのような官能的セックス・シーンとも縁はなく……」と書いているが、バルドーの全裸というのはこの『軽蔑』のことだろう。私もずっとバルドーのお尻だと信じて深く印象に残っていたシーンが、実は吹き替えで別の女優のお尻だったと知って驚いたのだった。これはゴダールのビジネス感覚などではなく、プロデューサーの強い要請で、しかしその時バルドーはすでにロケ地から帰ってしまった後だったので、仕方なく吹き替えたというのが真相だという。山田宏一トリュフォーの手紙』(平凡社)に書かれていた。


山田宏一『トリュフォーの手紙』を読む(2013年3月6日)