酒井忠康『鞄に入れた本の話』(みすず書房)を読む。世田谷美術館長の酒井が通勤の折りなどに読んだ本を紹介するという趣向のエッセイ集。静岡新聞に連載したものをまとめている。副題が「私の美術書探索」とあり、とくに美術書に絞って書いている。
読む前からちょっと危険な読書だと思っていたが、その通りだった。紹介されている本に読みたいものがたくさんあり、ただでさえ膨大な未読のリストがあるのに、さらにそれが増えてしまった。
まず、東野芳明『現代美術 ポロック以降』(美術出版社)。
……まず床に置かれた画布に絵具をぶちまけるように描く(…)ポロック論が最初にあり、この伝説に彩られたアメリカ現代美術の先導者が、44歳の若い命を絶った自動車事故による死の報(1956年8月)に、著者が接したところからはじまる。以下、15人の作家論が入っている。(中略)
東野氏は「美術批評」が、心理学や民族学などほかの領域での研究をとりいれて、戦後に大きく変わっていく、その先鞭をつけた批評家の一人である。晩年の論考『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年)などは、その最たるもので、ピカソとともに20世紀美術の変革の巨星となったデュシャンの底知れない創意の森に踏み込む労作としても忘れられない。
これは「シベリア 記憶の大地」と副題された宮崎進氏(1922−)の画文集である。(中略)
この150ページほどの小型の画文集も、宮崎さんのシベリア体験を物語る絵と写真のほかに、ここには詩人・宮崎進が身を隠すようしている、ということを暗示する詩と文が挿入されている。軽い読み物ではないけれども、詩人・石原吉郎の『望郷と海』(筑摩書房、1972年)とともに忘れられない1冊となるに違いない。
エミール・ベルナール『回想のセザンヌ』(岩波文庫)。日本画家の小泉淳作の随筆集『随想』(文藝春秋)に、この本を取り上げた一篇が入っていたと書き、
(小泉は)「エミル・ベルナールのことをあまり評価しない人もあるらしいが、私はこの1冊の薄べったい岩波文庫を読むと、まるで自分がセザンヌに会っているような感動を覚えるのである」と書き、さらに「有島生馬の訳だから、ちょっと古めかしい文章ではあるが、簡潔な文体で、私はこの本を名著だと思っている」と評している。(中略)
ゴーギャンが大変あなたの絵を愛し、習得しようとつとめていましたね、とベルナールが言うと、そうかね、それでは彼はまるで私を理解していなかったのだ――と答えて、輪郭線や装飾性への警戒を促し、自然というのは「球体、円錐形、円筒体」としてとらえることが大切なのだと説いている。すでにしてキュビスムの火種が蒔かれていたことを暗示している。セザンヌをモデルにした(と言われる)エミール・ゾラの『制作』を「嘘八百で捏ね上げた」ものだと怒り、一夕、バルザックの『知られざる傑作』とその主人公の話に及んだときには、「翁は烈しく感動して、眼に一杯泪をためて居られた」と記している。
次は建築家の石山修武の『笑う建築』(ちくま文庫)。世田谷美術館では2008年に「石山修武展」を開催した。
コルゲート・パイプを用いたデビュー作の《幻庵》(1975年)は、31歳のときの仕事。巨大なドラム缶を横にしたような鉄のかたまりでできた山中の庵(茶室)である。これは「ドラムカンの家」の創始者・川合健二氏(1913−96)との出会いによって生まれた産物である。その後、石山さんは旧来の建築の考え方を根本から覆すような実験的な仕事を続けて今日に至っている。そのほとんどは一種の「前衛建築」だが、こんどの展覧会は12の事例を取り上げて、石山さんの建築手法を紹介。あたかも建築家の脳髄(「思索の運動」そのもの)を解剖してみせたような展示となった。これこそ現代美術だ――と私は思ったが、どうだろう。
そして著者の元上司、神奈川県立近代美術館長だった土方定一の『日本の近代美術』(岩波文庫)を座右の本と紹介する。「……大部なものではない文庫なので、十分意を尽くした論理的説明や解釈を組み込む余裕を紙幅として持ち得なかったことを考えれば、実に簡にして要を得たところのある凝縮した叙述となっていてみごとなものです」と書いている。
全部で80冊近い本を紹介しているが、上記のほかにも読んで見たいと思ったものが多くある。例えば、アンドレ・ヴォジャンスキー『ル・コルビュジエの手』(中央公論美術出版)、エウヘーニオ・ドールス『プラド美術館の三時間』(ちくま学芸文庫)、近藤啓太郎『大観伝』(講談社文芸文庫)、ポール・ヴァレリー『ドガに就いて』(筑摩書房)、ドナルド・キーン『渡辺崋山』(新潮社)、ケネス・クラーク『絵画の見かた』(白水社)、高階秀爾『日本近代美術史論』(ちくま学芸文庫)、中村真一郎『眼の快楽』(NTT出版)、中山公男『西洋の誘惑』(新潮社)等々。
私がすでに読んで感銘を受けた本のいくつかも取り上げられている。野見山暁治『四百字のデッサン』(河出文庫)、吉田秀和の3冊『調和の幻想』・『トゥールーズ=ロートレック』・『セザンヌ物語』(いずれも中央公論社)などだ。これら4冊は本当に名著だと思う。
ここひと月半ほどの間に酒井忠康の本を5冊読んだが、本書と『ある日の画家』がとくにおもしろかった。
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