毎日新聞の書評欄で「2019 この3冊」(上)として、書評委員に今年のベストを挙げてもらっている(2019年12月8日)。その中から気になったものを拾ってみる。
荒川洋治(現代詩作家)
『いやな感じ』高見順著(共和国・2970円)
本書は、高見順(1907-1965)最後の代表作となる長篇。2.26事件、日中戦争にいたる昭和の激動期。一人の青年の心理と、行動のうねりを鮮やかに描き出す。文章表現でも、多彩な要素が集結。文学の魅力を更新した著者の最高傑作。
池澤夏樹(作家)
『ヒト、犬に会う 言葉と論理の始原へ』島泰三著(講談社選書メチエ・1925円)
本書は動物行動学の第一人者による人間と犬の関係についての考察。犬はペットではなく狩猟の相棒だった。緊密な仲を築くことで、個々では弱い種が今のように生態系の頂点に立つことができた。具体的なエピソードが際立っているし、途中に挟まれたコラムも秀逸。
『三体』劉慈欣著、大森望ほか訳(早川書房・2090円)
本書は現代中国のSF。三体問題という天文学のテーマを中心に据えて、とんでもなく大きな物語を構築する。現実とゲームを重ねるなど複雑化の意図もよく効いている。中国の文芸はここまで来たかと感心した。これに王力雄の『セレモニー』(藤原書店)を併読するのがお勧め。
井波律子(中国文学者)
『美術の物語』エルンスト・H・ゴンブリッチ著、天野衛ほか訳(河出書房新社・9350円)
本書は、洞窟壁画から現代美術までの流れを痛感した美術史。約70年前に初版が刊行され、今も読み継がれる美術史の金字塔である。絵画のみならず彫刻や建築をも視野に入れ、明快な口調で美術史の全体像を浮き彫りにする。解説と図版が緊密に組み合わされており初心者にもわかりやすい。
岩間陽子(政策研究大学院教授・国際政治)
『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』大木毅著(岩波新書・946円)
本書は、こんな本が売れるのだなという嬉しい驚きだった一冊。もちろん、独ソ戦は全てが桁違いで、史実だけで圧倒される。しかし本書はそれを超えて、この時代に関する最新の研究状況を踏まえ、「ヒトラーの戦争」とされてきた独ソ戦に関する国防軍や国民の責任、何故このような戦争が行われたのかに迫り、読ませる。
『日本社会のしくみ』小熊英二著(講談社現代新書・1430円)
本書は、就職後の様々な格差の存在理由を、日本の雇用慣行の学術研究を展望することで明らかにしている。正社員・非正規社員格差が存在するのも日本社会のしくみから説明できる。しかし、私たちは変化を迫られているのも事実だ。優れた本を新書で読めるのは幸せだ。
角田光代(作家)
『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン樗、岸本佐知子訳(講談社・2420円)
本書のどの短編小説にも人生の断片が息づいている。遠いだれかの人生のはずなのに、ひゅっと私の内部に入ってきて、思いもかけない力で揺さぶる。生きることはつらい。でも生きるしかない。そのことの豊かさが書いてある。
『隠された奴隷制』上村邦彦著(集英社新書・968円)
本書はコンパクトながら該博な知識に支えられた思想史研究であると同時に、現実社会批判であり、かつ実践を提起する、豊饒な書である。資本制は奴隷制の脱却から生まれたはずだが、それは隠されてきたにすぎない、という命題が精緻に展開される。
『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』保阪正康著(ちくま文庫・1078円)
本書は1974年の著作の文庫化。一高のエリートから農民へ転身。やがて五・一五事件に連座する橘孝三郎の軌跡を丹念に追った労作。大恐慌が農村に及んだとき、45年を待つまでもなく、日本はすでに破滅していたのだと強く実感させられた。このことが現代に何を示唆するのか熟考を迫る。
『感情天皇論』大塚英志著(ちくま新書・1078円)
2016年8月のあの「お言葉」とそれによる代替わりの意味を本質的な次元で考察した言説の余りの少なさに、私は呆然としてきた。そこに現われたのが本書である。「令和」のバカ騒ぎに興じても新時代など来ない。それを拓くのは強靭な思考のみだ
中島京子(作家)
『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン樗、岸本佐知子訳(講談社・2420円)
レイモンド・カーヴァーやリディア・デイヴィスに深く愛された作家の作品集は、彼女を熱愛する翻訳家の手で邦訳され、読者にその魅力が十全に伝わったのだろう。おかしみ、悲しさ、衝撃、郷愁を胸の奥から引っ張り出されるような読書体験だった。