酒井忠康『ある日の画家』を楽しく読んだ

 酒井忠康『ある日の画家』(未知谷)を楽しく読んだ。世田谷美術館長である酒井がここ十数年間に書いた戦後の画家についてのエッセイ集だ。麻生三郎、井上長三郎などから、岡本太郎宮崎進、早川重章、横尾忠則など27人の画家が取り上げられている。いずれも雑誌やカタログなどに書かれたもので、全体に軽い調子のものだが、神奈川県立近代美術館に長年学芸員〜館長として勤務していた経験から、画家の立ち位置に寄り添った記載が多く、上から目線でない気持ちの良い記述になっている。
 何度も取り上げたのが横尾忠則で、6回のエッセイが掲載されている。ついで宮崎進と高橋秀が5回ずつ、麻生三郎について3回書いている。とくに「麻生三郎断章」と題されたエッセイは力が入っている。断章でなく麻生三郎論を読みたいと思う。
 岡田謙三、難波田龍起、山口薫らについても語り口は優しい。岡本太郎については赤坂憲雄との対談が収録されている。宮崎進は彫刻さえも好意的に論じられている。
 早川重章の項では、童話作家の加藤多一から絵描きを紹介してほしいと言われて早川を推薦した話が書かれている。

 (出来上がった)原画をみた日のことである。加藤さんは震えるような声で、口癖の「すごいね」を連発した。わたしも震え、深い黙を仕舞い込んだような絵に、ただみとれるだけであった。

 絵本の題名は『ホシコ――星をもつ馬』(童心社)という。酒井が震えたという早川の絵を見てみたい。絵本の原画だから水彩で描いたのだろうか。早川の水彩(ガッシュ)なら素晴らしいに違いない。
 6回も書いている横尾忠則のことに一番力を入れているように見える。横尾に対する好意が読んでいて気持ち良い。
 宮崎進の項で、アンフォルメル(旋風)について語っているのが興味深かった。

これは描くという行為の意味と旧来の手法を根本からひっくり返す考え方で、いわゆる「抽象表現主義」と総称され、日本の戦後美術に大きな影響をもたらした動向である。それまでの造形思考のなかで定位置にあった美術の要素が、物質としてのマティエールそのものに還元され、表現行為のなかに収容されてしまうという事態は、ある意味で人間の原初的生命の躍動を活性化させる動向にもつながったが、同時にそれは、絵具が生み出すイリュージョンとしての「絵画」というより、マティエールそのものを生け捕りにした試みとなり、描くという行為の意味を、極限的にオブジェ化してしまった。見方をかえれば、これはセザンヌ以来の近代絵画の造形神話を無効のものとするあらたな神話の出現となったといっていい。

 酒井は気取らない人のようで、寺田透の論考「井上長三郎」は、いくら読んでも私の頭では理解できなかった、とまで書いてしまう。2010年1月にキッドアイラックホールで聴いた酒井と窪島誠一郎との対談でもそのことはよく感じられた。
 最後に瑣事ながら校正ミスの指摘を。236ページに「大驚が獲物をねらっている。いつでも急降下できる。」とあるが、「大驚」ではなく「大鷲」ではないか。また本文用紙が厚いのも気になった。厚い紙を選べば束が出る。つまり本が厚くなってページ数が多く見える。客はページ数を確認することはなく、束を見てコストパフォーマンスを想像するから、出版社は厚い紙を使いたがる。でも厚い紙はページがめくりにくいのだ。
 気持ちの良い読書だった。しばらくこの人の著書を読んでいこう。



ある日の画家―それぞれの時

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