エミル・ベルナール『改訳 回想のセザンヌ』を読む

 エミル・ベルナール著、有島生馬訳『改訳 回想のセザンヌ』(岩波文庫)を読む。わずか94ページの小著。私が読んだのは2000年発行の5刷だが、第1刷は1953年、初訳は大正2年の『白樺』連載とのこと。戦後改訳してタイトルにも改訳とあるが、とにかく訳文が古い。マネはマネェだし、ティシアンはティツィアーノだろう。何しろ有島生馬訳なのだ。

 ただし内容は面白い。ベルナールは晩年のセザンヌを訪ね、2か月間をセザンヌの画室を借りて親しく交流する。一緒にスケッチに出かけ、セザンヌとさまざまな会話をする。セザンヌはゴーガンを評価しない。裸婦を描くのにモデルを雇わない。地域の噂話になるのを恐れているのだ。

 ゴーガンについて、

 

「私は決して圓味(モドゥレェ)や、調階(グラデュアション)が全然無視されている作品を押売りされようと思わない。彼は無視覚な男の一人だ。手に油絵の筆を持っていた画家ではない。ただ支那式の形像(イマーヂュ)を描いたと云うに過ぎない。」

 

 

 セザンヌと2か月間を共にしただけあって、セザンヌの日常が生き生きと紹介されている。ぜひ新しい訳で出版されることを希望する。