金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』(日本文芸社)は30年近く前に雑誌に連載された彼女のエッセイをまとめたものだ。金井美恵子の鋭い毒舌が楽しめる。
短篇の持つ利点は、読者にとって、ということで言えば、とんでもない下手糞な文章を、何十枚も何百枚も読まされずにすむ、ということが一つある。
ざっとこんな調子で進んでいく。
分子生物学のジャック・モノーの『偶然と必然』が日本に紹介された時、モノーの訳者である分子生物学者とさっそく対談したのが雑誌に載り、その後で、(大岡昇平に)あれはまるで駄目な人ですよね? と言うと、もう少しマシな奴かと思ってたら、デコ坊だよ、とおっしゃるのだった。〈デコ坊〉という言葉は初耳だったが、ニュアンスはなんとなくわかったものの、そのしばらく後で安部公房とこの学者がテレビで対談をやっているのを見たのだが、〈デコ坊〉は、大層ふんぞりかえった態度で、馬鹿としか言いようのない無教養なことを喋るのであった。ああ、こういう子供っぽくふんぞりかえっている人物のことを言うのか、と納得がいった。〈デコ坊〉という批評は、いかにも教養人の批評なのである。
さっそく『偶然と必然』の訳者を調べてみると、渡辺格と村上光彦との共訳だった。〈デコ坊〉とはおそらく渡辺格のことではないだろうか。
トリュフォーの『突然炎のごとく』に熱狂したニューヨークの映画ジャーナリストたちの間で、わが娘にカトリーヌというジャンヌ・モローの演じたヒロインの名前を付けるのが流行した、というエピソードを山田宏一は『友よ映画よ』のなかで書いていたが、それは言うまでもなく、頭の良くない映画ジャーナリストのロクな女と恋することも出来ないみじめったらしいナルシシズムであり、さぞや女房もインテリでブスのくせに誰とでも寝る女なんだろう、という想像を許してしまう非映画的振舞いとしか言いようがないのだが、(後略)
D. W. グリフィスの作った映画『イントレランス』が、フジテレビなどのテレビ局や日本ヘラルド、東芝の共同企画で日本武道館で公開されたイベントに対して、
……むしろ「閉された場所」と呼ぶべきなのは、『イントレランス』の非映画的イベントの下品さのほうなのである。日本武道館は下品な建造物だし、イベントを企画するテレビというものは、今日の日本ではそうと口にする人々さえ見つけることが困難なのだが、はっきりと下品なメディアであり、極端に狭く小さな「閉された場所」なのだ。
テレビが下品なメディアであることは私も完全に同意するものだ。
さて、毒舌家金井美恵子が俵万智を表すればどういうことになるか。
「君」と「父」「母」、「弟」、「生徒」、そして「万智ちゃん」からなる、朝日新聞の「ひととき」欄のように、ほっと心なごむささやかな歌集をはじめて読んで驚いたのは、「万智ちゃん」であり「我」や「吾」や「私」とも表記される若い女性の、わが眼を疑うような媚び方だった。紋切り型に「父」と「母」が娘を心配し、陳腐そのものに、その「父」と「母」はふとしたはずみに「男」や「女」であることをかいま見せるのは、何もそれが短歌という土人の言葉によって韻律化されているからというわけではない。サラダの味を恋人に、この味がいいね、と言われて有頂天になり、「君」がケチャップ味が好きなことをメモに書きとめ手製のタマゴ・サンドが食べ残されるのを気に病み、「君」がアスパラガスが嫌いなことを発見して心を騒がせ、失恋することをおびえつつ、しかし失恋して「見る前に翔ばず何を見るのかもわからずけれどつるつる生きる」と考え、「我が膝に胎児の重み載せながら無頼派君が寝息をたてる」のを聴いている若い娘の世界は、短歌に詠まれる以前から、おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足とに韻律化されていることに、改めて愕然とさせられる。歌集に寄せられた、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二という三馬鹿青年たちのスイセンの言葉の、歌集そのものに輪をかけた退廃ぶりは、1988年の339版の裏表紙に、心得顔やしたり顔のスイセン者の方が名前を知られていない、という奇妙な事態をひきおこしたが、その程度のことで、この3人は反省ということをするとは思えない。
金井美恵子の面目躍如といったところである。本書には続編『〜Part 2』もある。文庫にならないのは、出版社が許可しないのだろうか?

- 作者: 金井美恵子
- 出版社/メーカー: 日本文芸社
- 発売日: 1989/11
- メディア: 単行本
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