吉行淳之介『女をめぐる断想』と『私の東京物語』を読む

 吉行淳之介『女をめぐる断想』(角川春樹事務所)と『私の東京物語』(実業の日本社)を続けて読む。前者は吉行が亡くなったあと編集された。後者は存命中に山本容朗によって編集され、有楽出版社が発行し実業の日本社が発売している。
 『女をめぐる断想』は5つの章から構成されていて、「はなしの入口」「女のかたちについて」「女ごころについて」「いい女の条件について」「快楽について」となっている。「快楽について」のみ、吉行の長篇小説から関係する箇所を抜粋している。この本については、ファンである私でもあまり評価することができない。
 『私の東京物語』は山本が編集しているだけあって、それなりに読みごたえがあった。東京の具体的な土地に関するエッセイや短篇小説を収録している。まず「昭和20年の銀座」というエッセイ。

 戦前の銀座の大通りには、その中央に市街電車のレールがあって、当然市街電車が走っていた。両側の歩道には柳が植えられて、露店が並んでいた。
 いまの銀座は、大通りの歩道を早足で歩いてゆくことができる。当時はそんなことはできず、前の人の背中がすぐ目の前にあって、ゆっくり動いてゆく状態だった。とくに、西側(小松ストア側)の雑踏ははげしく、東側はいくぶん余裕があった。つまり、銀座のメインは西にあったことになる。
 そして、人々は「銀ぶら」と称してその雑踏をたのしんでいた。最近、戦後生まれの人と話していて、「銀ぶら」という言葉をまったく違った意味に理解しているのに驚いた。金のない連中が、やむなくぶらぶらしていることだ、とおもっていたようだ。
「銀ぶら」は、厳密にいえば銀座4丁目(……)から、新橋の千疋屋あたりまでの西側の歩道をぶらぶらすることであった。

 ここに書かれた「いまの銀座」は1985年になる。これで分かったことがある。銀座のデパートは、松阪屋、三越松屋とも中央通りの東側にある。つまり、デパートを建てるとき、一番賑やかな5丁目から新橋にかけての西側には土地が手配できなかったということだろう。それで土地を入手しやすかった東側に並ぶことになったのだ。
 「踊り子」の章では今はない日劇ミュージック・ホールが話題にされている。ここの踊り子たちの「乳房だけは、つねに露わになっている」。1981年に発表されたこのエッセイでは、ミュージック・ホールは間もなく取り毀されると書かれている。その最後の舞台を見に行ったのだ。当時「スターはいても、トップスターの貫禄のあるのは、松永てるほだけである。ほかには、おまけして浅茅けいこくらいか」という。私もこの頃何度か通っていた。カミさんを連れて行ったこともある。とても受けた。そもそも初めて行ったのは、黒テント佐藤信が演出したことがあったからだ。私の贔屓は岬マコだったが。
 5階のホールまで階段を上り、心筋梗塞で倒れた人がいた。当時有名な漫画家の小野佐世男(させお)で、彼は小野耕世の父親だという。
 末尾に山本容朗の長めの編者解説「吉行さんの東京地図」が付いている。35ページもあるが、ちょっと未整理の印象もある。山本は、吉行の作品は作中人物が街をよく歩く、永井荷風と共通の土地と結びついた作家だという。荷風玉の井で遊び、吉行は鳩の街へ数え切れないくらい通った。玉の井も鳩の街も墨田区向島界隈で、東武東向島駅(旧玉の井駅)を挟んで東と西に位置する、現在はさびれて昔の面影は少ない。また吉行は母親あぐりが美容院を開いていた市ヶ谷のこともよく書いている。ほかに新宿二丁目柿ノ木坂界隈が舞台になっている。
 この有楽出版社の本は誤植が少なくなかった。ファンとしてはちょっと残念だ。



私の東京物語 (文春文庫)

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