海老坂武『加藤周一』(岩波新書)を読む。副題が「二十世紀を問う」、秀逸な加藤周一論であり加藤周一の小伝である。
海老坂は加藤の出生からていねいに見ていく。それが可能なのは加藤には『羊の歌』(岩波新書)という自伝があるからだ。加藤は一高から東京帝国大学医学部に進む。大学3年のときにアメリカとの戦争が始まった。加藤は母親に「勝ち目はないですね」と言った。私は、開戦のラジオ放送に群がった同級生たちを教室の窓から冷ややかに見ていた吉行淳之介をふと思い出した。
加藤は軍隊に取られなかった。戦中からフランス文学に傾倒した。戦後つぎつぎにフランス文学論を発表する。また海老坂は、戦後の小林秀雄を囲んでの「近代文学」同人の座談会での小林秀雄の有名な発言「僕は無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」を引いて、加藤は小林に無関心ではあり得なかったはずだと書く。
早い時期の加藤の作品である「金槐集に就いて」は、まさしく小林の「実朝」にたいする返答として読むことができる。後に1959年の「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの「精神」」を「同時代ライブラリー」に収めたとき、その「追記」で加藤は、この文章が小林秀雄を意識したものであることを明らかにしているが、戦後のこの時期に加藤の書いた多くの文章にも、小林の存在は影を落としている。
では「金槐集に就いて」を読まねばなるまい。
さて、1951年から加藤はフランスへ医学研究生として留学する。加藤はフランス、スイス、イタリア、イギリスを見て回る。海老坂は加藤の言葉を引く。「ローマには絵と彫刻とがあり、パリには建築と思想とがあり、ヴィーンには音楽がある。スイスでは人がそういうことよりも、電気冷蔵庫や自動車に興味を持っている」。
帰国後、加藤は小説『運命』を書くが、海老坂はあまり高い評価を与えていない。むしろ文明批評家〈雑種文化論〉の加藤周一として姿を現す。この日本文化の雑種性の指摘は画期的なものだった。だが、海老坂は加藤が雑種文化論を展開するにつれて、論旨が混乱してくるとも指摘している。
60年代中葉、加藤は3つの小説を発表し、それを『三題噺』として単行本にまとめた。3つの小説とは、石川丈山を描いた「詩仙堂志」、一休宗純(狂雲)を描いた「狂雲森春雨」、富永仲基を描いた「仲基後語」、3人とも実在した人物でその伝記といった形をとっている。
ついで自伝『羊の歌』『続 羊の歌』(岩波新書)が高く評価される。海老坂はサルトルの自伝『言葉』の影響を受けていると指摘する。また1968年の世界を描いた『言葉と戦車』が書かれる。アメリカのヒッピー、チョコスロバキアへのソ連軍の介入とチェコ人の抵抗、中国の文化大革命。
1973年から「日本文学史序説」の連載が始まる。これこそ加藤の代表作といえる。単行本にまとめられたのが、上巻が1975年、下巻は1980年だった。海老坂が本書中のおもしろい文章を示してくれる。
日蓮は当時の権力を憎悪したが、道元は軽蔑したのである。漁民の子が超越的信仰を武器として権力と戦い続けていたとき、天皇の親戚の子は、そもそも衆愚を相手にしない習慣に従い、山中に退いて、その超越的な思想を知的に洗練した。
(貝原)益軒は博物学的自然学を中心として、宋学を非体系化し、(伊藤)仁斎はその倫理学説を中心として、朱子学を非形而上学化した。
(新井)白石と(井原)西鶴は、一方が朱子学の、他方が町人と俳諧の語彙を駆使していたけれども、それぞれの世界の現実を理解しようと望む態度において、すなわち観察者としての資格において共通していた。
宮廷歌人として注文に応じて公的な歌を作りながらも、個人の感情を私的な歌に託して傑作を残した柿本人麻呂との相違を論じて、
(山部)赤人の劃期的意義は、彼が最初の職業歌人であったということである。赤人は何も発明しないということを発明した。すなわち「月並」の開祖である。開祖が後世の職業歌人によって崇められ、有名になったことは、少しも怪しむに足りない。
『忠臣蔵』について、
問題は、その所属感のすばらしさ・魅力であって、団結する集団が追求する目標の下らなさではなかった。〔……〕「四十七士」の人気は、日本人が目的を問わずに団結し得る能力を備えているかぎり、無限につづくはずであろう。
『葉隠』について、
『葉隠』こそは、偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのは、おそらくは決して人と戦うこともなく60歳まで生きることのできた人物が、誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり、徳川体制が固定した主従関係を「下剋上」の戦国時代に投影して作りあげた死の崇高化だからである。〔……〕『葉隠』は「犬死」を賛美したのである。
加藤はさらにその後、美術史を扱った『日本 その心とかたち』と、精神史を扱った『日本文化における時間と空間』を書いている。海老坂はこれらにも大きな評価を与えているが、残念ながら私はまだ読んでいない。
加藤周一が好きでありながら、私が加藤の良い読者ではないと自覚しているにも関わらず、加藤についてこんなにも知らないということを教えられた。『羊の歌』や『日本文学史序説』を再読し、未読の文献を読んでいこう。
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