井上ひさし『自家製 文章読本』(新潮社)を読む。いろいろ教えられてとてもためになった。『文章読本』というテーマは何人もの大文豪たちが執筆している。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、中村真一郎、中条省平等々があげられる。この他斉藤美奈子は『文章読本さん江』というちょっとおちょくった本を書いている。もっとも私は丸谷才一と斉藤美奈子しか読んでこなかったが。
丸谷才一のは例文がきわめて多く、とにかく面白かった印象がある。しかし一体に文章読本というテーマにあまり興味が持てなくて、触手が動かなかった。だが井上ひさしは読む価値があるだろうと思って読み始めたが、その判断は正しかった。
文章の書き方の指南書の多くに「話すように書け」とある。宇野浩二も佐藤春夫も糸川英夫もそう言っていると書いてから、井上はそれに反対する。話し言葉と書き言葉とはお粥と赤飯ほども違うのだと。そして反対理由を書き連ねている。それはまさにその通りだろう。話すように書いたら文章にはならないのだ。
日本語が論理的だということについて井上は書く。
一時、日本語は論理的ではない、論理の展開には適さない言葉だ、という議論が流行したけれど、これは眉唾ものだ。日本語は充分に論理的なのである。論理的でなかったのは、論者たちの頭の中味だった。
以前、ドナルド・キーンの『日本文学史 近代・現代篇6』(中公文庫)を読んだとき、キーンの明晰な文体が加藤周一のそれを思い出させて、そのことをブログに書いた。
本書を読んでいて、加藤周一の文体を思い出した。明晰で論理的な加藤の文体とキーンのそれがよく似ているのだ。もちろんキーンが加藤の影響を受けたなどということはなくて、加藤がドイツ、カナダでの生活を通じて欧米の明晰な文体や論理を身につけたということだったのだろう。加藤周一の文体は欧米のものだったのだ。
・ドナルド・キーン『日本文学史』を読む(2012年10月20日)
加藤周一の文章は日本人離れした論理的なものだ。加藤は日本語を使って十分論理的に表現できることを実践してみせた。つまり日本語が論理的な表現に適さないのではなくて、いままでの日本人が論理的でなかっただけなのだ。
丸谷才一も亡くなった吉田秀和を追悼する文章で、吉田の評論をきわめて高く評価していた。「知的で清新で論理的な文章を、情理兼ね備はつた形で書く」と。
とにかく文章がうまかつた。内容があつて新味のある意見、知的で清新で論理的な文章を、情理兼ね備はつた形で書くことにかけては、近代日本の評論家中、随一だつたのではないか。わたしはもちろん、いはゆる文藝評論家たちを含めた上で言つている。
・吉田秀和さんが亡くなった(2012年5月30日)
加藤周一自身も、『『羊の歌』余聞』(ちくま文庫)で、日本語が俗説と違って論理的な言語であることを明言している。
「日本語はあいまいである」という誤った俗説がある。日本語をあいまいなし方で用いる人が、世間に多かった、ということは、一つのことである。日本語の性質そのものが、あいまいな表現しか許さない、ということは、また別のことである。「よく考えたことが、はっきり表現される」のは、17世紀のフランス語に妥当するばかりでなく、20世紀の日本語にも、妥当すると思う。それにも拘わらず、しばしば世間にはあいまいな表現が通用してきたのである。その理由は日本語そのものにではなく、日本語のそのような用い方を一般化してきた文化の性質にもとめなければならない。遠くは享保の富永仲基が、はやくも、文化と言葉の密接な関係に注目し、近くはレヴィ=ストロースLevi-Straussが文化および言葉の通時的側面(歴史的条件)と同時的側面(合理的構造)とに注意している。言葉から入って、言葉を超える問題が、彼らの仕事の延長上で、追求されなければならないだろう。
・『『羊の歌』余聞』から加藤周一の言葉(2012年1月15日)
さて、井上が斎藤茂吉の歌を引用して、『逆白波』(さかしらなみ)は造語だろうと書いている本林の説を肯定しているようにみえる。
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
は、「悠容せまらぬ大河の様相を忽ち一変させる吹雪のすさまじさ、矢のように走る無量の雪片、その中に白い波頭を見せて立ち乱れる最上の流れ−−それが作者の視野を領している。『逆白波』は造語であろうが日本海からの逆風で河流が波立つさまをを云うのである。それにしても『ふぶくゆふべとなりにけるかも』という混沌をひめた万葉的な句法は、まさに茂吉本来の姿のよみがえりを示すものであり、自然の動運の相を示して余すところがない」(本林勝夫『斎藤茂吉』(桜風社)ほどの傑作とされる。(中略)それにしても茂吉はなぜ「逆白波」という語を発明したのだろう。
本書は1984年に単行本が発行されている。北杜夫が岩波書店から『青年茂吉』に始まる茂吉の伝記を出版し始めるのが1991年からだ。それは『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』と続くが、その中で逆白波について、弟子たちと最上川へ旅行したとき、案内してくれた現地の人が口走ったその言葉をすぐにメモして、他の人の前で口にするなと言ったと書かれている。逆白波が茂吉の造語ではなかったことが分かる。また現地の魅力的な言葉を知ってそれを独占しようとした茂吉の子供っぽい独善性が示されて微笑ましいエピソードだ。
井上ひさしの文章読本からはたくさんの有意義なことを教えてもらった。とても良い本だった。
- 作者: 井上ひさし
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1987/04/28
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