由良君美の過激な批判

 昨日紹介した四方田犬彦「先生とわたし」(新潮社)は四方田が師と仰ぐ英文学者由良君美のことを語った評伝である。その中に由良が、一流とされている評論家たちを酷評した文章が紹介されている。

……文芸評論家の江藤淳由良君美より3年遅れて、この西脇(順三郎)ゼミを受講している。もっとも西脇は、学生時代から文壇の喧噪のなかを遊泳する術に長けた印象を与えた江藤をひどく嫌っていたようで、「今日は江頭(えがしら=江藤の本名)君が来ているから教室に出ない」と他の学生に言ったという逸話が残されている。由良君美も江藤を嫌っていて、『漱石とその時代』はイギリス絵画への基本的な無知に基づく、方法論を欠いた愚著だと公言していた。

漱石とその時代』は、私が明治に関心を持ったきっかけの本だったのに。

 バフチンラブレー論に示唆されて、一度は『罵倒の文法』という新書判を夏休みを潰して執筆しようとまで考えたことのあった由良君美は、みずから戯作調を用いて同時代を揶揄する術にも長けていた。たとえば次のような一節。
法皇某は『無常といふこと』の八方破れのあと、文字どおり鍔を文学と観ずる恍惚に走り、それを論じて文壇に月評子となりし某は、憐れや今世紀の弁疏も身につかぬままに、百数拾年の昔に生前はや遷化されし、〈……とその時代〉なるヴィクトリア朝的風習に安住したもう。『言語にとって云々』とやらの長文の垂れながしに、一握の書生を糾合されし牛飯屋主人某は、近代言語学に一切通ぜず、フォルクス・エティモロギーに浮き身をやつし、某々の憫笑を買いしと言う」
 斉藤緑雨を気取った、ひどく屈折した文体が指し示しているのは、小林秀雄江藤淳吉本隆明のことである。由良君美はこの3人を、方法論を欠いた印象批評の輩として嫌っていた。だがその逆に、横光利一には生涯にわたって敬意を抱き、彼の手法の変遷を分析的に辿る論考を数点発表している。埴谷雄高鮎川信夫には好感を抱き、とりわけ後者の『戦中日記』に共感を感じると語っていた。
 だが由良君美がもっとも長期にわたって不倶戴天の敵と見なし、その存在に対する嫌悪を隠そうとしなかったのは、同じ英文学を専門とする都立大学(現在の首都大学東京)の篠田一士だった。篠田について由良君美が最初に言及したのはきわめて早く、まだ慶應義塾助教授だった1964年、篠田の『現代イギリス文学』の書評である。どうやらこの時期から由良君美は、自分とほぼ同年齢でありながらいち早く著書を江湖に問い、華々しく活躍している篠田を、目の上の瘤のように眺めていたらしい。(後略)

 さりげなく、由良の批判が個人的な好悪によるものであることが語られている。横光利一小林秀雄吉本隆明を比べれば、どんなに贔屓目にみても、横光利一に分がないことは誰にだって分かるだろう。ところで、吉本隆明が「牛飯屋主人」などと呼ばれているのはなぜだろう。知っている方に教えを乞いたい。


先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)