「もう牛を食べても安心か」が教えること

 福岡伸一「もう牛を食べても安全か」(文春新書)は狂牛病発生に合わせて企画された本かもしれないが、実に重要なことが書かれている。著者は分子生物学が専攻の青山学院大学教授。
 狂牛病に感染する原理や臓器移植の危険を指摘しているが、それらの主張の前提として「消化」を解説している。その解説は、ふっと哲学的宗教的境地に到達しているかのようだ。「分子のレベル、原子のレベルでは、私たちの身体は数日間のうちに入れ換わっており、「実体」と呼べるものは何もない。そこにあるのは流れだけなのである。」

もう牛を食べても安心か (文春新書)

もう牛を食べても安心か (文春新書)

 なぜ、私たちは他の生命を奪ってまでタンパク質をとり続けなければならないのだろうか。その理由を解くためには、食べたタンパク質のイティネラリー(旅程)を知る必要がある。肉や野菜に含まれるタンパク質は食いちぎられ、咀嚼され、消化管に送り込まれる。そこで、消化酵素によって分解を受ける。タンパク質は、その構成要素である20種のアミノ酸に分解される。(中略)消化管からアミノ酸が血液中に取り込まれたとき、初めて「体内」に入ったことになる。
 体内に入ったアミノ酸はどこに行ってどうなるのか。(中略)食べた食物は瞬く間に、分子のレベル、ひいてはそれ以下のレベルまで分解される。一方、安定なはずの内燃機関たる生物体もまた驚くべき速度で常に分子レベルで解体されている。そして食物中の分子と生体の分子は渾然一体となって入れ換わり続けている。つまり、分子のレベル、原子のレベルでは、私たちの身体は数日間のうちに入れ換わっており、「実体」と呼べるものは何もない。そこにあるのは流れだけなのである。(p.54-56)

 重窒素で標識された餌が成熟ネズミに3日間与えられた。排泄物はすべて集められた。実験終了後、ネズミを殺し、すべての臓器と組織について、重窒素の行方が調べられた。

 この(実験の)間、ネズミの体重は変化していない。これは、身体のタンパク質は3日間のうちに、その約半分が、食物由来のアミノ酸によってがらりと置き換えられ、もとあった半分は捨てられた、ということである。もし重窒素を3日間与えた後、ネズミをもう3日間、今度は重窒素を含まない餌で飼った後、同じ測定を行えば、身体に取り込まれた重窒素の大半は捨てられ、新しいアミノ酸に置き換わっているはずである。外から来た重窒素は、ネズミの体の中を通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎた、という表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が”通り過ぎる”べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、”通り過ぎつつある”物質が、一時、形作っていたに過ぎないからである。つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。
 (中略)
 肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ換わっている。この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと、出て行くタンパク質との収支が合わなくなる。それがタンパク質を食べ続けなければならない理由なのである。(p.60-62)

 食物としてのタンパク質は、その起源が牛や豚、鳥などの動物性タンパクであるにせよ、大豆や小麦に含まれている植物性タンパクであるにせよ、それがもともと他の生物の一部であったことに変わりはない。そして、そのタンパク質はその生物体内で個々に特有の機能を持っていた。タンパク質の機能は、そのアミノ酸配列によって決定される。つまり、アミノ酸配列は情報を担っている。しかし、他の生物のタンパク質情報は、捕食者にとって必要がないばかりか、有害ですらある。なぜなら、外部から入ってくる情報はノイズとして、自らの情報系に不必要な影響をもたらすからである。したがって、消化とは、食べ物を吸収しやすくするため細かくする、という機械的な作用よりも、もとの生物がもっていたタンパク質の情報をいったん解体して、自分の体内で自分に適合した形で情報を再構成するための出発点を作る、という重要な意味をもっているわけである。これが消化の生物学的意義である。(p.99)