井ノ口馨『記憶をコントロールする』を読む

 井ノ口馨『記憶をコントロールする』(岩波科学ライブラリー)を読む。副題が「分子脳科学の挑戦」。朝日新聞の書評欄で福岡伸一が推薦していた(6月30日)。福岡の書評から、

……私たちが何かを体験すると、脳の海馬でシナプスが回路を作る。それが記憶の元型となる。そして、ここからが重要なのだが、海馬で作られた記憶は、大脳皮質に書き写され、海馬の方はクリアされる。しかも、大脳皮質に保持された記憶の回路は、思い出すたびにいったん不安定化され、再度、固定化されることも明らかになった。記憶の美化や目撃証言の信憑性、あるいは意識とはなにかまで議論は及ぶ。(後略)

 名古屋大学農学部分子生物学を学んだ井ノ口が、記憶の仕組みを研究する脳科学へ進み、コロンビア大学のキャンデル教授の研究室に採用される。キャンデル教授は生理学者で記憶研究の第一人者であった。後に2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。
 記憶は脳の海馬や大脳皮質に蓄えられる、と井ノ口は書く。記憶は脳のニューロンの集団の組み合わせとして蓄えられる。ニューロンシナプスを介在して複雑な回路を形成している。それを実証するために、特定のニューロンを殺して記憶を消去させる。実験の結果、それが確認された。
 記憶は初め海馬に蓄積される。しかし、記憶はやがて大脳に送られてそこで長期記憶を形成する。同時に海馬での記憶は消去される。その仕組みを利用して、PTSDの発症を予防する対策を実用化しつつある。
 記憶が形成されるメカニズムについて、井ノ口は分子生物学の手法でその秘密に迫っていく。とてもスリリングでおもしろい。文章も分かりやすく、読みやすい。記憶の間違いや記憶の強化についても興味深い事例とともに語られる。
 最終章で、意識と記憶の関係について考察される。

 意識を司っているのは、ちょうど額の裏側にあたりにある大脳皮質の前頭前野です。意識はおそらく、人間独特の精神活動だと思います。(中略)
 (意識という言葉の)意味はいろいろありますが、私がここで言っている意識は、もっとも本質的な意味での意識です。つまり、自分が今ここにいることや自分が自分であることを意識しているという意味での意識、一番高次の意味での意識です。(中略)
 よく考えてみると、意識には今この瞬間に意識している意識と、自分の自我とか人格を形作っている意識があります。このうち、後者の意味での意識はまさに記憶そのものなのです。過去にしてきたいろいろな体験が全部、記憶になって、それらが有機的につながり、今の人格、もっと言えば今の意識を形作っています。
 そうだとすれば、記憶の研究をつき詰めていけば、物理科学の言葉あるいは分子レベルの言葉で、意識の問題にたどり着くことができるだろうと私は思っているのです。(小見出し略)
 その意味で、私がもっとも頭を悩ませてきたのが、この瞬間の意識です。今、自分がここにいるこの瞬間での意識は、記憶では説明できません。
 この難問の突破口を開くヒントを与えてくれたのが、カリフォルニア工科大学下條信輔教授らの研究です。
 下條教授らは、今この瞬間の意識がどのように形成されるかを探った実験を行ないました。実験の対象は人間です。被験者の前に、たとえばふたりの人間の顔写真を出し、「この顔を見てください。自分が好きだと意識した瞬間にボタンを押してください」と指示したのです。(中略)
 そうすると、面白いことにボタンを押して好きだと意識する数秒前に、脳の活動に変化が見られると同時に、好きだと選んだ顔を長い時間見るなど、注意していたことが分かりました。つまり、こちらが好きだという選択が意識に上る前に、もう既に判断が行われていることが明らかになったのです。
 下條教授らのグループは同じような実験をいくつも行っていますが、その多くが意識する数秒前にすでに決定が下されているという結論になっています。ということは、今この瞬間の意識というのも実はこの瞬間ではなく、数秒前の意識である。実際の判断と現れた意識の間に数秒間のズレがあるということです。(中略)(下條教授に)この実験結果について意見を聞いたところ、「意識というのは超短期記憶ではないのか」とコメントしています。
(中略)
 もう一度、整理してみると、過去の瞬間瞬間に体験したことを、その瞬間瞬間に意識したことが記憶になっています。過去の瞬間に意識したことが記憶になって、現在の記憶を構築しているのです。
 ということは、その瞬間の意識を脳に留めるメカニズムがあって、それが記憶の獲得(記銘)ということになります。その一方で、過去の記憶の積み重ねが現在の意識を構築しているという逆の側面もあります。自我とか人格というのは、過去の記憶によって形成されているということです。この場合には、自分が経験したことの総和を思い出すこと(想起)が意識と言えるでしょう。さらに、子どもの頃の記憶のような古い記憶というのもあります。知識として残され、パーマネントな記憶となっているのです。
 つまり、記憶を獲得する、記憶を思い出す、記憶を長いこと保持する、記憶同士を連合させる、そして記憶を作る。これらすべてのことが実は意識そのものではないのかと思われます。
 そして、これだけは記憶からは説明できないとして、ひとつだけ最後まで難問として残されていた、今この瞬間の意識についても、超短期記憶という切り口で説明することができるかもしれないという段階に至っているのです。

 長い引用になってしまったが、わくわくするような結論が述べられている。あと、先日読んだルイーズ・バレット『野性の知能』の説く「記憶さえも脳の外に貯蔵されている」という場所の記憶との整合性についても知りたいところだ。


記憶をコントロールする――分子脳科学の挑戦 (岩波科学ライブラリー)

記憶をコントロールする――分子脳科学の挑戦 (岩波科学ライブラリー)