熊谷伸一郎『金子さんの戦争』(リトルモア)を読む。副題が「中国戦線の現実」。著者熊谷が太平洋戦争の中国戦線に従軍していた金子安次にインタビューしてまとめたもの。金子安次は浦安の漁師の次男として生まれた。徴兵検査の結果は甲種合格、1940年の12月入隊する。20歳だった。北支派遣軍、独立混成旅団第44大隊に配属された。
初年兵は古兵から一日中殴られる。訓練期間中の3か月間で殴られなかった日なんて3日くらいのものだった。さらに教育作戦では中国人捕虜を銃剣で刺し殺すことを強制された。木に縛り付けられた中国人たちに一人ずつ突っ込んで行って銃剣を突き立てた。これは実際に殺させることで初年兵に度胸を付けるための訓練だった。
敵対している部落を襲うこともあった。家を焼く。若い男性などは逃げてしまっているから女子どもしかいない。女子どもだからって殺さないって考えはない。女は子どもを産むし子どもは大きくなれば日本軍に敵対するようになる。一軒一軒の家を回って家の中にいる住民を外に連れ出す。彼らを共同井戸に連れて行き一人ひとり井戸に落とし込む。最後に手榴弾を投げ込む。残った家には火を付けて燃やす。隠れている住民たちを焼き出すためだった。
八路軍(中国共産党の軍)が入ったという村を攻めたときは、二つの中隊で挟み撃ちにして銃撃し、ガス弾も使った。四方にある門から八路軍の兵士や住民たちが逃げ出してくる。そこを狙って機関銃が掃射された。頃合いを見計らって部隊が集落の内部に入った。敵兵や武器を探すのだが、古兵は強姦を目的にする者もいた。抵抗した女を井戸に投げ込んだら、小さな男の子が「マーマ!マーマ!」と泣きながら自ら井戸へ飛び込んでいった。そこへ手榴弾を投げ込んだ。
強姦はしばしば行われた。慰安所はあったが、慰安所では金がかかるが強姦はただだったし、上官に咎められることもなかったから。敵地区では何をしてもいいんだと。
敗戦は北朝鮮で迎えた。これで命は助かった、故郷へ帰れると思った。しかしソ連の捕虜にさせられて、シベリアへ送られた。その時は天皇が助けに来てくれると信じていた。天皇のために戦ってきて、それで捕虜になったんだから。それが、3年経っても4年経っても来やしない。
ソ連の取り調べで特務機関だろうと責められる。破れかぶれになって「好きなようにしろ」と啖呵をきった。それで戦犯にされて、仲間が日本に帰れるのに中国へ送られた。1950年だった。
中国では戦犯管理所に入れられた。ソ連の収容所と比べてひどい扱いは受けなかった。1951年の正月に、餅やキャラメル、南京豆、リンゴがたくさん出された。そのことを話しながら金子が泣いた。「嬉しかったんだよ」と。
1956年、軍事裁判が始まった。起訴を免じて即時釈放というものだった。その日のうちに監獄である管理所から出された。その夜はそのまま汽車に乗って天津に着き、日本に帰る船を待った。1956年7月金子さんは16年ぶりに日本へ帰国した。
しかし日本に帰ってきても、ソ連に抑留されていたという経歴から警察の監視は続いた。
その後、慰安婦の集会や、中国戦線について語る会で自分の体験を話すようになった。
本書を読んでいて息苦しくなるような印象を覚えた。私の父も中国戦線に7年間行っていた。金子さんと同じようなことをしたのだろうか? 義父は学徒動員で中国戦線に投入されていた。もう戦争末期だったので苦労ばかりしたらしい。体験談を聞いても話したくないと言っていた。そして、先輩たちはいい思いをしていたのだとも言った。
本書の金子安次さんが辛い告白を残してくれたことに感謝する。
