若桑みどり『女性画家列伝』を読む

 若桑みどり『女性画家列伝』(岩波新書)を読む。雑誌『創文』に連載したものをまとめたもの。12人の女性画家を取り上げ、その画家の「本質をえぐる」という点を追及している。

 取り上げている画家は、シュザンヌ・ヴァラドン、アルテミジア・ジェンテレスキ、エリザベート・ヴィジェ・ルブラン、アンゲリカ・カウフマン、ケーテ・コルヴィッツ上村松園、ラグーザ・玉、山下りんマリー・ローランサンレオノール・フィニ、ナターリア・ゴンチャローヴァ。

 シュザンヌ・ヴァラドンユトリロの母、ドガは、「彼女に素描の天才があり、しかもそこには古典的精神がある」と言ったという。ただ「彼女は解剖学を知らず、人体の有機的構造を把えられず、空間の三次元的構造を欠いていた。これらは正式にアカデミーで絵を学ばなかった人間に共通の特徴である」と若桑は書く。デッサンはしばしば狂っていて、空間が把握できなかった。しかし今日の目から見ると、「三次元が把握できなかったシュザンヌの絵は、ゴーガンが主張した「色彩と平面」を主とする革新的な絵画に属しており、息子よりはるかに前衛的である」。

 エリザベート・ヴィジェ・ルブランについて、

 

……何にもまして彼女の人気は、彼女自身がまた“自分の描く人物のように”とびきりの美人だったことにある。(中略)はっきり言って、彼女の絵の中でとり上げる価値のある作品は、自分の顔だけである。おそらく、それが彼女にとってもっとも関心のある主題だったのであろう。

 

 ケーテ・コルヴィッツを若桑は高く評価する。彼女の画集が日本で最初に出たのは1950年だった。若桑の父は中学生だった彼女にこの本を与えた。「色」が好きだった若桑は黒と白の彼女の絵が好きではなかった。でも若桑が芸大生になってから、当時ほとんど氾濫しているかにみえた「自由美術展などで、進歩的、左翼的、社会主義的な主張をもった日本の画家たちの作品」の慣用句(イディオム)となったのが、ほかならぬ彼女の形態だと気付いた。

 わが師山本弘も早くからケーテ・コルヴィッツに注目していたと言っていた。

 「カールとともにいる自画像」(1942)がある。このとき夫カールはもう死んでいたが、彼女は亡き夫と共にいる自画像を描いたのである。ケーテはナチスによって画家として制作することを禁じられた。その絵について、

 

……信ずるもののために闘い、自分の才能と心情に忠実であり、全人類の幸福を願い、全人類の不幸に泣き、愛する子供をもち、ともに悲しむ伴侶をもったこの女性が、私にはうらやましい。幸福こそ人間の権利だと信ずればこそ、周囲の暗黒がはっきりと見えたのだ。幸福の追求を断念した人間が、いつわりの美しい絵を描く。

 

 ラグーザ・玉は、明治15年から昭和8年まで、夫ラグーザとともにイタリアで暮らした。イタリアのみならずヨーロッパやアメリカにおいて一等賞をとり続けた玉をイタリアは絶賛した。しかし、夫を亡くし帰国した玉に日本の美術界は冷たかった。玉の作風は西欧のリアリズムと象徴主義の結晶である。それに対して、明治の洋画家たちの多くは、フランスの印象主義か、それ以前の外光派か、あるいは折衷的なアカデミズムを取り入れたものだった。

 日本に帰国したとき、玉はただのひとことも日本語を覚えてはいなかった。

 画家になるためには専門的な訓練が必要だ。中世まで女性にはきちんと美術を学ぶ場がなかった。例外は父親が画家だった場合だけだった。父親は娘を教え、そのような条件のもとでのみ女性画家が誕生した。

 12人の画家を紹介したあとで、現代の女性作家として多田美波と対談している。さらにあとがきとして「女性はどのようにして芸術家になったか」という略史を書き加えている。

 若桑という女性美術史家だから書くことができた名著だと思う。女性画家に限らず、美術に興味がある者にとって必読と言ってもいいだろう。