太田治子『絵の中の人生』を読む

 太田治子『絵の中の人生』(新潮選書)を読む。雑誌『新潮45』に1994年から5年間連載されたもの。1回が4ページ前後と短いが、1枚の絵を取り上げ、それについて書いている。太田は画家について、あるいは描かれた人物について、太田の感じた気持ちを書き綴る。レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』では、この聖アンナがマリアさまかと思い、この顔は他の泰正名画のどのマリアさまの顔よりもマリアさまらしく思われたと書く。また、ダ・ヴィンチの絵の女性の中で私がまことに生きていると感じられるのは、この聖アンナとモナ・リザの顔だけであると。
 ベラスケスの『フェリーぺ4世の胸像』が志村喬の顔を思い出させたという。志村のぶ厚い唇が嫌いだった。ゴッホの『馬鈴薯を食べる人々』をみるたびに私は、一途に夫を慕う妻のいじらしさに胸が熱くなる。マネの『バルコニー』では、絵のモデルのベルト・モリゾに注目する。ベルトへのマネの熱いまなざしが尋常ならざるものだったことがよくわかる。なるほど眼が大きいベルトは美人だ。セザンヌの『赤いチョッキの少年』では、この少年のメランコリックな表情から、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の主人公ハンスを感じている。その後に書かれることはほとんどセザンヌと中学校時代からの親友ゾラとの交友関係ばかりだ。
 太田は絵を語るにあたって造形的なことにはほとんど触れないで、画家や描かれた対象に関するエピソードを書き綴る。それは吉田秀和とは対照的なやり方だ。このような語り方があったのかとちょっと教えられた。私は1970年代から現代美術に触れてきた。当時抽象絵画が全盛だった。作品のなかに文学性が入り込むことを皆ひどく嫌った。これは文学じゃないかというのがきつい批判だった。美術は造形について語るものというのが当時教えられたことだった。その後美術には概念的なものや再び具象的なものが戻って来たことは知っていた。ただ、若い時に身についた心情はなかなか消えないのだった。だからアンゼルム・キーファー展を見たときは驚いた。描かれた内容の意味が重視されている!
 本書で一番違和感を持ったのは長谷川利行の『岸田国士像』に対する評価だった。これが利行らしくない絵だと思ったと言い、この像があまりに武骨で単純な人物らしくみえることに少しばかり苛立たしさもおぼえたという。「鈍重なもの」とまで言っている。私は利行の作品の中でこれが最高の傑作だと思っている。あくまで「利行の作品の中で」という留保つきではあるが。とくに造形的に他の作品とは別物だと思う。
 自分と異なる意見を知ることは自分の考え方を反省するきっかけになる。こういう見方があることを知ることができたのだった。


絵の中の人生 (新潮選書)

絵の中の人生 (新潮選書)