山本弘「雪の三叉路」 F10号
今年も8月19日から1週間、東京渋谷のアートギャラリー道玄坂で山本弘展を企画している。その折り配布するちらしの文章を書いた。
山本弘はふつう絵に描きにくいものをしばしば描いている。霧そのもの(「種畜場」)や、降る雪(「雪の三叉路」)、降る雨(「秋雨」、「街の雨」、「水神」)、小枝を束ねた柴垣(「芝塀」)など。本来、絵にしがたいモチーフを選んで作品として成功させている。その強引とも言える造形力、非凡な創作力をぜひ見てください。
山本弘は1930年(昭和5年)、長野県南部の農村神稲(くましろ)村(現豊丘村)に生まれた。1945年15歳のとき、予科練に入隊すると言って故郷を出たが間もなく終戦になる。厚労省に入隊の記録はなかったが、終戦で間に合わなかったのか。その頃一緒に住んだ映画監督の恩地日出夫氏によると、山本は戦艦や戦闘機などの戦争の絵ばかり描いていた軍国少年だったという。
終戦後飯田へ帰った山本はその後繰り返し自殺を試みているがいずれも失敗する。戦前戦後の価値観の混乱で虚無的になっていたのではないか。その虚無感は長いあいだ癒されなかった。自殺の試みは10代いっぱい続き、ヒロポン中毒に苦しみ、その後も晩年の一時期を除いて生涯酒を手放すことはなかった。
絵は子供の頃から巧かった。1947年(17歳)全信州美術展で特選となる。1948年18歳のころ造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)に入学するが、のち中退する。一時期贋作で有名な滝川太郎の弟子となり書生として住み込むが、人使いが荒いとここも逃げ出す。
飯田市へ戻り、山仕事や代用教員などしながら絵を描く。1955年日本美術会飯伊支部結成に参加し、上野の日本アンデパンダン展に出品する。その後も長年にわたって出品していた。1958年(28歳)飯田市公民館で初個展。ついで1963年再び飯田市公民館で第2回個展。1964年飯田リアリズム美術家集団(リア美)結成に参加する。
1966年36歳のとき、松島愛子(25歳)と結婚する。当時すでに酒びたりだった。このころ脳血栓となり、以後言語障害と手足の不自由に苦しむ。1968年に飯田市公民館で個展を開く。1971年長女湘(しょう)が生まれる。1972年飯田市内の飯田画廊で個展を開く。その後も酒びたりの日々は変わらず43歳の時(1973年)に脳血栓が再発し半身不随に陥る。1975年にアル中治療のため飯田病院に入院する。翌年1月退院し、以後2年間断酒する。
10代から飲み続けてきた酒を45歳で止めたというのがすごい。まぎれもなく重症のアル中患者だったのに! 1976年、1977年と2年間断酒し、制作に没頭する。どんなに描いても売れることはなく誰からも評価されなかったのに、ただただ描き続けた。自分の作品に強い自信を持ち、作品をきちんと世に残そうと思ったのに違いない。断酒した2年間と、再び飲酒を始めた翌1978年の3年間で大量に描いている。まさに山本弘豊穣の年だった。
その成果を1976年飯田市勤労福祉センターで個展。さらに飯田市公民館で1977年に1回、1978年に2回個展を開いている。3年間で4回の大きな個展、おそらく200点の油彩作品を展示している。
1978年の初めから飲酒を再開し、体調を崩し入退院を繰り返す。1980年1月アル中治療のため飯田病院精神科に入院し、翌年4月に退院したが飲酒はやまず、7月15日に自死する。享年51歳。
亡くなって4年後に友人たちの手で『山本弘遺作画集』が刊行され、飯田市内3つの会場で400点を集めた遺作展が開かれた。1991年飯田市立美術博物館が50点近くを収蔵し、1995年同館で須田剋太・山本弘二人展が開かれた。1992年に曽根原正好に案内されて美術評論家の針生一郎氏が飯田市内の未亡人宅を訪ね、山本の作品をきわめて高く評価された。作品によっては松本峻介より良い、香月泰男より良いとまで言われた。さらに、どんな画家にも見る者への媚びがある、しかしこの人の絵には全く媚びがないね、ただ自分のためだけに描いていると。
その後東京の東邦画廊で繰り返し個展が開かれる中で読売新聞にも大きく取り上げられ、『芸術新潮』にも紹介された。瀬木慎一さんやワシオ・トシヒコさんからも高い評価を受けた。酒に溺れながらも俗世間を拒否し、絵以外を顧みることのなかった虚無と孤高の天才画家山本弘、その激しく美しい作品をご覧ください。
個展の詳しい情報は追ってまた紹介したい。