風狂無頼の画家山本弘との半世紀

                       

 私は山本弘の弟子だった。山本弘飯田市の画家だが生前それほど多くの飯田市民に知られてはいなかった。知っている人もあの酔っ払いの画家かという程度の認識だったろう。事実いつも酔っ払った姿で市内をうろつき、悪口雑言は毎度のことだった。人の個展を見に行って、こんなの絵じゃないなんて言っていた。絵は売れず奥さんの愛子さんなどが山本さんの色紙、とくに河童の色紙を売り歩いていたので、飯田市民は河童の弘さんと呼んでいたと聞く。飯田市公民館で開かれた個展の際も、来場した知人が弘の絵が分かるのは飯田で3人くらいだと言っていた。まんざら誇張でもないように思われた。
 私は高校を卒業後1年ほどして山本家を訪ね弟子になった。しかし、最初に僕は弟子は採らないから先生と呼ぶなと言われたので終始山本さんと呼んでいた。もっとも私は絵を描くつもりはなかったので絵の弟子というわけではない。では何を習っていたのかと聞かれたときは酒を習いましたと答えていたが、本当は人生を習っていた。
 山本弘は昭和5年、神稲村(現在の豊丘村)で山本里二の次男として生まれた。5歳のとき父親に伴って当時の飯田町へ転居した。戦時中は軍国少年だった。3歳年下の、のちに映画監督となった恩地日出夫さんによると、飯田へ疎開した折りなぜか山本さんと二人暮らしをしていたという。当時から山本さんは絵が巧くしきりに戦闘機や軍艦を描いていた。終戦間際に予科練に入隊すると言って飯田を出て行ったが、逃げ帰ってきた。数年前愛子さんに厚労省へ確かめてもらったところ、入隊した記録はなかった。
 飯田へ帰ってきてすぐ終戦になり、やがてヒロポン中毒になったと聞く。その頃から何度も自殺を試みる。首をくくったり青酸カリを飲んだりDDTを茶碗一杯飲んだり酔っ払って湖に飛び込んだりした。いずれも生還している。心臓が強靭だったのだろうか。ヒロポンはやめたが酒におぼれていく。戦争が終って大人たちがあっさり米国の価値観に転向していった。鬼畜米英と言っていたのは何だったのか。15歳の軍国少年にとって戦後の価値観の転倒は耐えられなかったのではないか。それがヒロポンや酒におぼれたり自殺を試みたりしたことの理由だったと私には思える。
 子供の頃から絵が巧かったので画家になろうと決意する。山本さんは尋常小学校しか卒業していなかった。東京へ行って造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)へ入学しようとして、手先が器用だったことから架空の中学校の卒業証書を偽造する。そして造形美術学校に入学している。卒業した記録がないのでおそらく中退しているのだろう。しばらくは東京で過ごしていたらしい。画家の池田龍雄さんが、戦後中央線沿線の飲み屋で会った記憶があると言う。昭和30年に開かれた第1回杉並美術展に池田さんや小山田二郎・チカエさんらと一緒に出品している作品目録が残っている。
 この前後に飯田へ戻ったのではないか。教員をしていた先輩の小原玄祐(若月玄)さんの下宿へやってきてべたべた甘えていた。自分でも代用教員をしたり、天竜舟下りの菅笠の絵を描く内職や山仕事もしていたらしい。昭和30年に日本美術会飯田支部の結成に参加し、日本アンデパンダン展や平和美術展にも出品している。昭和33年に飯田市公民館で初個展を開く。
 昭和36年飯田市周辺の集中豪雨のあと、友人の遠山望さんと軽井沢の照月湖へ行き避暑客相手の土産物屋の店員をした。山本さんが絵付けをすると楽焼が高値で避暑客の奥様連中や外人に飛ぶように売れたという。そんなある時、酔って不意にVanity of vanity, all is vanityと壁に書いて泣き出したと、遠山さんが書いている。「空の空なるかな、すべて空なり」という言葉は山本さんから何度も聞いた。旧約聖書の言葉だ。
 昭和41年、36歳のとき松島愛子と結婚。この頃過度の飲酒のためか脳血栓を発症、以後後遺症で言語障害を起こし手足が不自由になる。しかし相変わらず酒を飲み続けながら絵を描いていた。愛子さんによると、絵を描く間はひたすら描き続け、一段落すると今度は終日酒を飲み続ける。何日も飲み続けると吐血したりして倒れてしまう。それから数日間寝込み、回復するとまた絵を描き続けるという生活だった。
 私が出会ったのはこの頃だ。1年間山本家へ通い、その後上京しても帰省するごとにまず山本家へ顔を出した。飯田市の公民館や勤労福祉会館などで個展を開いていたが、ごく少数の知人を除いて高くは評価されていなかった。酒量は減ることはなくアル中も重症になり何度も入院した。最後にアル中治療のため飯田市立病院の隔離病棟に1年間入院した。アル中治療の専門病棟がなく精神科病棟だった。やがて退院して3カ月後に亡くなった。昭和56年7月、自死だった。享年51歳。
 山本さんが亡くなったあとも帰省するたびに未亡人を訪ね、絵を見せてもらっていた。生前俺は天才だとうそぶいていたが、愛子さんも私も本気にはしていなかった。しかし何度もその絵を見ているうちに本当に優れた画家であることが分かってきた。亡くなって10年ほどして、絵を十数点借りだして銀座の画商に見せて回った。どこもまともに評価してくれなかった。ある画商は、汚い絵だ、貧乏くさい絵だ、売れない絵だなどと言った。悔しかったが、何年も経ってからある意味で正しいと思った。きれいな売れる絵ではない、しかしそのことは優れた絵であることと矛盾しない。
 1992年、美術評論家針生一郎さんに手紙を書いて、私の先生は優れた絵描きだが全く評価されていないと訴えると、では絵を持って来なさいと言われて針生さんの自宅へ伺った。その場で懇意だと言う画商に電話してくれた。その画商東邦画廊の中岡夫妻を訪ねるとやはり高く評価してくれた。その後で針生さんと中岡夫妻を飯田市の愛子未亡人宅に案内した。押入れから次々取り出した山本さんの絵を見て、針生さんはこれは松本竣介より良い、これは香月泰男より良いと最大級の評価をされた。
 1994年に東京京橋の東邦画廊で開かれた第1回山本弘遺作展は無名であったにも関わらずほとんど完売した。その時読売新聞に書かれた針生一郎さんの言葉。飯田市の未亡人の家を訪ねて作品を見たときのことを。

……むろん芸術家の生活がどんな内的苦悩にみちていようとも、作品はそれじたいで評価されるほかはない。だからわたしたちは作品を見る前にどんな成算もあったわけではないが、一点一点みせてもらいながら、しばしば目をみはり、何度も感嘆の声をあげた。初期の暗鬱な色調をもつ写実的な画風から、しだいに形態の単純化と色彩の対照による内面の表出へと転換する。とりわけ注目されるのは、生活が荒廃しても、体力が衰えても、絵画の質の高さは失われないことである。晩年はむしろ、非具象ともいえる奔放な筆触と色塊のせめぎあいのうちに、極限まで凝縮されたイメージがあらわれる瞬間をとらえようとしている。

 その後、未亡人に画料を支払わない東邦画廊と決別し、私が倉庫を借りて残った作品を管理している。そして画商に企画を持ち込んで山本弘展を開いている。主に銀座の画廊で、兜屋画廊、ギャラリー汲美、戸村美術など八画廊にのぼる。飯田市立美術博物館や三鷹市美術館、平塚市美術館、長野県の東御市にある梅野記念絵画館などのグループ展でも展示されている。何よりもわが飯田市立美術博物館には50余点が収蔵されていて時々数点が展示される。
山本弘との半世紀」と題したが、生前の付き合いは14年間だった。亡くなってもう35年が過ぎている。山本弘針生一郎さんが絶賛したように、きわめてすぐれた画家だ。そのことを顕彰するのが今も私の生活の大きな目標にになっている。