梅野記念絵画館の「私の愛する一点展」を見る

 長野県東御市にある東御市梅野記念絵画館で「私の愛する一点展」が開かれている(2014年1月13日まで)。ここは東京京橋でギャラリー藝林を経営していた梅野隆を記念して作られた小さな美術館だ。この絵画館友の会の会員が年1回、自分のコレクションを持ち寄って展覧会を開くというのが主旨で、今回が13回目となる。私も誘われて会員になり、山本弘の「雪の三叉路」を出品した。
「私の愛する一点展」では毎回全出品作品を掲載したカタログを発行する。そこに出品者が、簡単な画家の紹介を記すことになっている。今回66点の作品が出品された。先日紹介した堀内康司のグワッシュの作品も展示されている。
 山本弘「雪の三叉路」1970年代後半
 油彩、キャンバス(53.0x45.5)

 私の書いた山本弘の紹介

虚無の画家 山本弘


 1930年長野県神稲村(現豊丘村)に生まれ、幼い時に飯田市へ転居した。終戦の年に15歳だった。戦後ヒロポン中毒に苦しみながら絵を描き続けた。1948年造形美術学校(現武蔵野美術大学)へ入学するが、授業料が払えず退学。その後飯田市へ戻り、山仕事等をしながら絵を描いた。ヒロポンはやめたものの、アル中となっていた。何度も自殺を試みたが奇跡的に生き返り、日本アンデパンダン展などへの出品を続けた。
 36歳で結婚したが、その頃脳血栓となり、言語障害と手足に障害が残った。手が不自由になってから本当の山本の絵が生まれた。1981年に亡くなるまでのほぼ10年間足らずが、山本弘の豊穣の期間といえる。51歳で亡くなったので40代が晩年となるが、制作面からは豊かな晩年と言えるだろう。実生活ではアル中に苦しみ、その治療のため1年間入院した直後に自死を選んだことから、決して幸福な人生ではなかったかもしれないが。
 亡くなってから10年ほど経って、美術評論家針生一郎に認められ、京橋の東邦画廊をはじめ、銀座のいくつもの画廊で個展が開かれた。読売新聞に大きく取り上げられ、芸術新潮やさまざまな雑誌新聞に紹介された。

 山本弘の略歴

1930年長野県に生まれる。1947年全信州美術展特選。1948年造形美術学校(現武蔵野美術大学)入学、のち退学。1958年飯田市公民館で第1回山本弘個展。1981年自死。1985年「山本弘遺作画集」刊行。1994年より数回東京京橋の東邦画廊で遺作展。その後銀座兜屋画廊、ギャラリー汲美、戸村美術などで遺作展。飯田市美術博物館に50点余収蔵される。


「第13回 私の愛する一点展」
2013年10月26日(土)−2014年1月13日(月・祝)
9:00−17:00(休館日10/28、11/5、11、18、25、12/2、9、16、12/24〜1/6)
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梅野記念絵画館
長野県東御市八重原935-1
電話0268-61-6161
http://www.umenokinen.com/