山本弘は晩年断酒までして誰も買わない絵を量産したのか?

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 山本弘昭和5年に生まれた。日中戦争が勃発したときは10歳だった。山本は戦争に夢中になり、絵が巧かったことから軍艦や戦闘機の絵を描きまくっていた。15歳のときに予科練へ入隊すると言って家を出たが、おそらく終戦と重なってか入隊は叶わなかった。8月15日のあと、日本は軍国主義からいっぺんに平和主義に鞍替えし、昨日まで鬼畜米英と叫んでいた大人たちは民主主義をうたい出した。軍国少年だった山本は価値の混乱に直面し、ヒロポン中毒に耽溺し、ついで酒に溺れて行った。そのアルコール中毒はその後山本のほとんど一生を支配した。
 山本はきわめて才能豊かな絵描きだったにも関わらず、健全な飯田市民にとって、単なる酔っぱらいの画家、気ちがいじみた行動を繰り返す生活破綻者でしかなかった。誰もまともな画家とはみなさなかった。
 40代前半にアル中が原因の2度目の脳梗塞に陥ったあと、昭和50年(1975年)45歳のときアル中治療のため飯田病院精神科に入院する。翌年昭和51年(1976年)1月に退院したあと、断酒を実行しそれは2年間余続いた。こんなにも長期間酒を断ったのは初めてではなかったか。残された晩年の作品は1976年から1978年のものが多い。この3年間を山本弘の豊穣の年と言ってよいだろう。事実傑作もこのころに集中している。
 そして地元の飯田市公民館や飯田市勤労福祉センターなどの広い会場を借りて、1976年9月、1977年4月、1978年は1月と10月に続けて4回も個展を行った。展示した点数は油彩だけでも200点を超えるのではないか。
 しかし、1978年1月の個展のあと、再び飲酒を始める。入退院を繰り返し、体調は悪化し、精神的にもピリピリした状態が続いた。そして1980年1月、再度アル中治療のため飯田病院精神科に入院する。入院日誌にはスケッチをまじえ、制作への欲求を訴える。
 1年3カ月後の1981年4月に退院する。退院後も酒はやめずに描き続けるが、3か月後の7月15日に自宅にて縊死する。享年51歳。
 すると1976年から78年までの3年間は山本にとって白鳥の歌だったのだろう。ほとんど売れない油彩、誰からもまともに評価されない油彩を描き続けたのだった。誰が評価しなくても自分自身は己の作品の価値を信じていただろう。でなければ誰も買わず誰も評価しない油彩を大量に描き続けることなどできはしない。
 亡くなって4年後に友人たちが『山本弘遺作画集』を編集する。その出版資金を作るために、飯田市公民館と市内の画廊2軒、合わせて3会場で遺作展が行われ、ほぼ400点が並べられた。しかしその後、時に未亡人を訪ねて絵を買いたいという人が現れたが、実際の絵を見るとこれは買えないと言って、亡くなったあと結局10年間1点も売れなかった。
 ようやく飯田市美術博物館の館長井上正が美術館への収蔵を決め、寄贈という形でほぼ50点が収蔵された。翌年美術評論家針生一郎が未亡人宅を訪ね、極めて高く評価した。それを受けて東京の画商東邦画廊の中岡吉典が東京での遺作展を企画する。1994年の第1回遺作展はまれに見る成功を収めた。さすが東京には目の肥えたコレクターがいたのだった。
 さて、晩年の3年間山本が売れない絵を描きまくったのはなぜなのか。2年間も断酒してまで。おそらく死をもどこかで覚悟して、自分の才能を確実に定着しておこうと考えたのではないか。山本は自己が天才であることを確信していたが、おそらく寿命がそれほど長くはないことに気づいたのだろう。30年間アル中だった人間が2年間とはいえ断酒したのはどんなに強い意志と忍耐を要したのだろう。その成果は確実に残されたのだった。