山本弘遺作展が半ばを過ぎた

 東京新宿区四谷三丁目のTS4312で開かれている山本弘遺作展も半ばを過ぎた。展示されている作品の一部を紹介する。

「河童」(左)と「芝塀」(右)
 どちらもF10号。「芝塀」は1978年の作品で「河童」もその頃だろう。「河童」はエアーブラシのような技法が使われているが、エアーブラシはもっていなかった。おそらく『芸術新潮』などでその技法を知り、何かで工夫して似た効果を出したのだろう。
 「芝塀」は柴塀のことだろう。桃太郎のお爺さんが山へ柴刈りに行ったというあの柴で作った塀のことで、柴=小枝を集めて作った塀を描いている。小枝の集積を描くという他に類のないような試みに挑戦している。微妙な色彩で小枝の集積を描いているが、小枝を再現することが目的ではなく、小枝の作る量塊の美を表現することに興味を持ったのではないか。

「花」(左)と「重い花」(右)
 「花」はF10号、「重い花」はF8号、それぞれ1978年と1969年の制作。   「花」を描いた1978年は実質的には最晩年になる。この年飯田市の公民館などで2度も個展を開いている。それぞれ50点ほど出品している。いわば豊饒の年と言えるだろう。翌1979年は体調が思わしくなかったこともあり、作品はきわめて少ない。1980年は極度のアル中治療のため1年間入院し、1981年4月に退院して7月に亡くなっている。1978年に一斉に開花して散った花のようだ。
 「重い花」は39歳のときの作品。見てくれた人たちから顔ではないのかと言われた。この作品と「雪景色」が30歳代のもので、少し毛色が違ってみえる。

「自画像」(左)と「過疎の村」(中)と「黒い丘」(右)
 「自画像」と「黒い丘」はF10号、「過疎の村」はF20号、自画像は1976年46歳のときのもの。「黒い丘」は豊穣の年1978年、「過疎の村」もその頃だろう。
 「過疎の村」については、飯田市と木曾を結ぶ大平峠にあった集落を飯田市の方針で住民全員を市内に移住させた。その無人となった集落を仲間たちとスケッチに行ったときのもの。荒廃したような無人の集落に夏のぎらぎらする太陽が照り付けている。
 「黒い丘」は多くの人から評価されている。一気に描き上げたのだろう。強い筆触と単純な構図が優れた造形を示している。
 「自画像」は美しい色彩で描かれている。当時の山本によく似ている。
 1978年は豊穣の年だったと書いたが、体調はきわめて悪かった。最後の個展のときのスナップ写真が残っているが、酔っぱらってだらしない印象だ。だが展示は車椅子に乗ってすべて山本が指示し、題名も自分で書いていた。
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山本弘遺作展
2017年1月13日(金)〜1月29日(日)【金土日のみ】
12:00―19:00(最終日17:00まで)
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TS4312
東京都新宿区四谷三丁目12番地 サワノボリビル9階
電話03-3351-8435
http://www.ts4312r.com/