山本弘展のリーフレット

 9月24日(月・祝日)−29日(土)まで渋谷のアートギャラリー道玄坂山本弘展を開きます。そのリーフレットができました。



 そのテキストは下記のとおりです。

山本弘は1930年(昭和5年)に長野県神稲村(現豊丘村)に、山本里二と千春の次男として生まれた。5歳のとき家族とともに隣町の飯田町(現飯田市)へ転居した。1945年、15歳のとき、予科練に入隊すると言って故郷を出たが間もなく終戦になる。没後遺族が厚生労働省へ問い合わせたが入隊の記録はなかった。その頃一緒に住んだ映画監督の恩地日出夫氏によると、山本は戦艦や戦闘機の絵ばかり描いていた軍国少年だったという。
 終戦後飯田へ帰った山本はなぜか繰り返し自殺を試みているがいずれも失敗する。1947年全信州美術展に応募し特選となる。絵は子供の頃から上手かった。大量に絵を描くが、ヒロポン中毒になり苦しむ。1948年18歳のころ造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)に入学するが、のち中退する。一時期贋作で有名な滝川太郎の弟子となり書生として住み込むが、人使いが荒いとここも逃げ出す。
 その後飯田市へ戻り、山仕事や代用教員などしながら絵を描く。1955年日本美術会飯伊支部結成に参加し、上野の日本アンデパンダン展に出品する。その後も長年にわたって出品していた模様。1958年飯田美術協議会結成に参加する。同年飯田市公民館で初個展。ついで1963年飯田市公民館で第2回個展。1964年飯田リアリズム美術家集団(リア美)結成に参加する。
 1966年36歳のとき、松島愛子(25歳)と結婚する。当時すでに酒びたりだった。このころ脳血栓となり、以後言語障害と手足の不自由に苦しむ。1968年に飯田市公民館で個展を開く。1971年長女湘(しょう)が生まれる。1972年飯田市内の飯田画廊で個展を開く。その後も酒びたりの日々は変わらず43歳の時(1973年)に脳血栓が再発し半身不随に陥る。1975年にアル中治療のため飯田病院に入院する。翌年1月退院し、以後2年間断酒する。
 1976年飯田市勤労福祉センターで個展。このころ日本美術会を退会し、リアリズム美術家集団から除名される。理由を責任者は態度が悪かったからだと言っていた。1977年に1回、1978年に2回、飯田市公民館で個展を開く。この年の初めから飲酒を再開し、体調を崩し入退院を繰り返す。1980年1月アル中治療のため飯田病院精神科に入院し、翌年4月に退院したが飲酒はやまず、7月15日に自死する。享年51歳。
 亡くなって4年後に友人たちの手で『山本弘遺作画集』が刊行され、飯田市内3つの会場で400点を集めた遺作展が開かれた。1991年飯田市立美術博物館が50点近くを収蔵し、1995年同館で須田剋太山本弘二人展が開かれた。1992年に曽根原正好に案内されて美術評論家針生一郎氏が飯田市内の未亡人宅を訪ね、きわめて高く評価された。作品によっては松本峻介より良い、香月泰男より良いとまで言われた。さらに、どんな画家にも見る者への媚びがある、しかしこの人の絵には全く媚びがないね、ただ自分のためだけに描いていると。
 その後東京の東邦画廊で繰り返し個展が開かれる中で読売新聞にも大きく取り上げられ、『芸術新潮』にも紹介された。瀬木慎一さんやワシオ・トシヒコさんからも高い評価を受けた。酒に溺れながらも俗世間を拒否し、絵以外を顧みなかった虚無と孤高の天才画家山本弘、その激しく美しい作品をご覧ください。

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山本弘
2018年9月24日(月・祝)〜9月29日(土)
11:00−18:00(最終日は17:00まで)
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アートギャラリー道玄坂
〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂102
電話03-5728-2101
http://www.artshibuya.com