関龍夫という画家がいた

 前回、吉行淳之介関係で紹介した関龍夫さんについて書いてみる。関は1899(明治32)年長野県飯田市生まれ、早稲田大学に学び、川端画学校を卒業する。岡精一、山本鼎、林倭衛に師事する。東宝文芸部舞台科に入社する。また昭和17年43歳で独立美術展に初入選し、昭和21年会友になるが、昭和44年会友を辞する。昭和29年より日本美術会主催日本アンデパンダン展に出品し、以後毎年出品を続ける。

 昭和38年銀座兜屋画廊で個展を開き、以後同画廊で3回個展を開いている。昭和39年飯田リアリズム美術家集団結成に参加する。山本弘もこの時一緒に結成に参加している。昭和51年、77歳で飯田市文化功労章を受章する。

 昭和59年妻美津幾没し、翌昭和60(1985)年、その後を追うように住宅の火災で全身火傷し86歳の生涯を閉じる。

 関は油彩を描いていたが、西洋の油彩ではなく、日本独自の油彩を目指していた。キャンバスの隅に柿の実を描き、あるいは皿や死んだ雀を描いたりしている。背景を淡色の色面や黒で塗りつぶした。日本画の余白を油彩で表現できないか試みているのだと話してくれたことがあった。

 『関龍夫遺作画集』に寄せた開善寺住職の橋本玄進の言葉より、

 

 関さんの生涯は、絵画に殉じた生涯であった。或時、関さんは、こんな事を言った。

「油絵が、日本に来て、既に百年以上も経ている、何時までも、西洋画では困る、日本の、日本人の油絵でなければならない、西洋の真似では困るよ。」

 関さんは、日本の油絵を画く事に生涯をかけたのかも知れない。

 

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鼻糞をほじくる男(自画像)

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山門とぼたん

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夕暮の仙丈岳

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 関の書も評価が高く人気があった。友人によると、「その書法は直筆で筆軸のてっぺんを持ち真直に立てゝ書く。常人の出来ぬ技であった。」

 その筆の持ち方は比田井天来に教えられた。2年ほど天来に師事したという。比田井天来とは、wikipediaによれば、「現代書道の父」と呼ばれる、とある。関は初め天来の娘と結婚していた。その折に天来に学んだのだろう。娘は比田井抱琴という書道家だが、関とは離縁している。

 油彩の中に直接書を貼り込んだ作品もあった。

 人柄は温和で画家仲間たちから尊敬と信頼を集めていた。飯田美術博物館に作品が何点も収蔵されている。