『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』を読んで

 田村隆一(語り)・長薗安浩(文)『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』(ちくま文庫)を読む。雑誌『ダ・ヴィンチ』に連載したものをメディアファクトリーから『詩人からの伝言』として単行本化し、それに田村隆一の詩を加えて文庫化したものだという。同雑誌の編集長だった長薗が鎌倉に住む71歳の田村を訪ね、そこで語られたことを構成して雑誌に連載した。だから田村隆一(語り)・長薗安浩(文)となっている。「第1話 結婚」から引く。

 もしも、だ。
 ぼくに年頃の息子がいて、結婚を考えている女性がいるとする。その際に、ぼくは彼に向かってこう告げる。
「その女性の母親に会わせろ」
 これでわかる。娘と母親は似ている。いわば、息子はその母親のようになっていく女性と結婚するわけだ。だから、母親を見れば、その娘さんの真の姿も想像がつく。
 反対に、ぼくの娘が結婚を考えているならば、こう言うんだ。
「その男性の本当の親友2人に会わせろ」
 類は友を呼び、友は類を呼ぶ。つまり、類は類を呼ぶのが男同士の油人関係だから、親友の2人にも会えば彼の実情が手にとるようにわかるわけさ。2人の親友もいないような男は、論外。

 「第13話 外国語」から、

 だからね、外国語を身につける習うと言ったって、土台は母国語なんだよ。日本という風土で生まれ育ち生活することで、日本語という言葉、母国語がぼくらの中に内在化されているんだ。ここを理解してスタートしなけりゃ、外国語も活きてこないんだ。大別したとき、言葉がもつ2つの機能、1つは伝達する機能、もう1つは感情を喚起する機能だけど、外国語は主に前者の目的のために習得される。しかし、母国語は2つの機能とも果たしてくれる。喚起された感情が伝達されたとき、ぼくらは言葉の機能に感謝するだろう。だから、まずは母国語を身につけておくことが、結局はマスターした外国語を有益なものにする近道なんだ。
(中略)
 国際化。つまりインターナショナルって声高に言われるけれど、ナショナリティーがなくてインターナショナルなんてありえないんだよ。もしあるとすれば、そんなものは単なるファッションに過ぎない。
 言葉も同じさ。日本語が豊かになって、はじめて外国語も豊かになるんだ。母国語というナショナリティーの充実が、豊かなインターナショナルを育むのさ。翻訳の出来、不出来は、まず日本語として豊かな表現になりえているかだ。単語の意味や構文の解釈だけに長けていても、貧しい日本語しかない訳者からは面白い作品は届かない。だからさ、外国語を学ぶなら、まず母国語に豊かになること……。

 「第14話 借金」から、

 新橋駅近くに闇市があってね、そこでカストリを売ってたんだ。人工アルコールを水で薄めたひどい酒でね、目が潰れるなんて言われてたんだけど、とにかく酒はこれしか手に入らない。そこで、セコセコつまんない小説を書いていた女性から金を借りてさ、カストリを飲んでたんだ。この女性は新橋にあった大蔵省の外郭団体の職員でね、給料はぼくの勤務先よりはるかに良かった。(中略)その女性、その後もせっせと小説書いて、とうとう作家になったんだよ。それが、有吉佐和子だよ。

 「第18話 同窓会」から、

 年齢とともに変化するのは、男より女だな。17、18歳の頃から水が出てくる。体の中に水が満ちていくんだ。だから、「水もしたたる佳い女」という表現が残っているだろう。
 ただし、ぼくの長い女性観察歴からすると、水があるのは9年間だ。昔は6年だった。したがって、お肌の曲がり角は25歳と言われたんだよ。まあ、今は食生活の向上もあって、9年の間は大丈夫だよ。内面の水が女性を瑞々しくしてくれる。
 この時期が過ぎると、水の代わりにラードが出てくる(笑)。ラードだよ、ラード。ラードがどんどん付いていく。つまり、20代も半ばを過ぎると、女性はラードとの戦いを延々とくり返すことになる。ラードが付きにくい人は、どうなるか?
 水がなくなって、ラードも出ない。
 だから。
 骨だけになる。骨だけ(大笑)。

 ちょっと暴言ではないだろうか。むかし私がN自動車座間工場でプレス工をしていた時、先輩で宇土さんという中年の小父さんがいた。彼は女性の一番魅力的な年齢は28歳だと断言していた。当時私は23歳だった。そんなものかなあと聞いていたが妙に印象に残っていまだに憶えている。
 いや、本書のことである。引用したいくつかを除いて、あまり感心しなかった。田村隆一、老いたりと言えどもこんなはずではなかろう。聞き手の長薗の力不足ではなかったか。それとも聞き書きで連載をするという企画に無理があったのだろうか。
 掲載されている田村の詩の選択も適切だとは思えなかった。
 本書には、田村隆一の詳しい年譜が付されている。その年譜から、

昭和34年 1959年 36歳
(……)
8月、宗左近の紹介により、伊那盆地の城下町、飯田市の開善寺で2カ月間過ごす。
(中略)
昭和49年 1974年 51歳
(……)
夏、信州飯田の開善寺を再訪する。

 開善寺には宮本武蔵の書があり、庭も有名な名刹。その一隅に画家関龍夫さんが住んでいた。田村隆一にはこの開善寺を書いた詩があり、関さんを語ったエッセイがある。その詩「恐怖の研究」の一節。

 信州上川路の開善寺の境内で
 僕は一匹の純粋な青い蛇を見た
 ふるえる舌
 美しい舌

 田村隆一のエッセイ集『詩人の旅』(中公文庫)から。

(開善寺の)裏庭から、本堂の回廊を歩いて、山門の方に行ってみよう。しだれ桜や松の巨木のあいだをぬって、やっと根のついたばかりの、か細い白樺の木をながめ、鐘つき堂の下から、真昼の境内をゆっくり歩いていこう。開善寺のほとりに住む無欲にして高潔なる老画伯の、まるで庵室のようなアトリエへ行ってみよう。ザクロがころがり、モズが一緒に暮しているアトリエ。それから老画伯と二人で、桑畠のあいだをぬい、薄暗い竹林をさまよい、小高い丘の上にのぼっていこう。シダや、ススキがはえている丘の上から、秋の伊那谷をながめてみよう。わたしたちの視線は、時又の天竜峡をわたり、美しい段丘に散在している、対岸の竜江の村落をつたわるだろう。「あれが仙丈です」ーー白髪の老画伯が、南アルプスの一角を指さすだろう。「秋が深くなると、あの山が紫色にかわるのです。ま、そのころまでいるのですな、ハッハハハ」

 若い頃、関さんには親しくしてもらった。飯田市の優れた画家の一人だ。水墨画の何も書かれていない空間を油彩で再現しているのだと語ってくれた。現在、飯田市美術博物館の「伊那谷の洋画家たち」には関龍夫の作品が3点展示されている(3月15日まで)。

関龍夫(1999−1985)「夕暮の仙丈岳
       ・
伊那谷の洋画家たち」
2015年1月17日(土)〜3月15日(日)
9:30〜17:00(月曜休館)
       ・
飯田市美術博物館
長野県飯田市長野県飯田市追手町2-655-7
TEL 0265-22-8118
http://www.iida-museum.org