『斜陽』と『エーゲ海に捧ぐ』を読んで

 太宰治『斜陽』(新潮文庫)を読む。これはどこかで読んだ作品に似ていると考えて、それは池田満寿夫だった。付き合って捨てた女がくどくど訴えかける構図が似ているような気がした。それで池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』(中公文庫)を読み直した。単行本の出た1977年に読んだから38年振りの再読だった。
 作中トキコという日本に残した妻からのしつこい電話に主人公が悩まされている。主人公はしばらく前からサンフランシスコに住んでいる。妻と電話で話している目の前には愛人のアニタが全裸で横たわっていてそれをグロリアが映画に撮っている。電話の向こうでトキコが言う。

 −−10年前、あなたは25歳だった。あなたはネクタイのしめかたも知らずジンフィーズを飲んだことがなかった。キッスの仕方だけは、ばかにうまかったけど、盛り場をのら犬のようにさまよい、どぶねずみのような目つきで、いつもおびえていた。(中略)
ネクタイもしめられなかった男、靴下をいつもうらがえしにはいていた男、下着のボタンをぜんぶなくしたまま平気でいられた男、味噌汁を3ばいのまなくては気のすまなかった男、ヒゲをそればいつも顔じゅうを傷だらけにしていた男、女を棄てることも愛することもできなかった男、とりえといえば手に職をもっていたことだけ。ねんどをいじったり、ガラクタを集めてきて、それを組合せることだけがうまかった男。わかる? それがあなたなんだ。

 38年前に読んでここだけが印象に残っていた。池田満寿夫自己批判ができる人だと思っていた。田舎から出てきたダサイ男が『マイフェアレディ』とは逆に、都会の女によってちゃんとした紳士に仕立てあげられる。その女を棄てたあと、彼女からダサかった出自を批判される。あんたは今最初から洗練されていたような顔をしている。でもそれは私がすべて教えてあげたことだったと。しかし批判している=書いているのは作家だから、それは自己批判なのだ。
 『斜陽』にも太宰らしき男、かず子の弟の直治の自己批判が出てくる。それが『エーゲ海に捧ぐ』を思い出させたのだった。
 しかし今回読み直した『エーゲ海〜』の読後感はひどかった。本書は3つの短篇からなっている。「エーゲ海〜」はここに紹介したような内容だ。「ミルク色のオレンジ」はアメリカで出会った16歳になったばかりの日本人少女との性交渉の話だし、「テーブルの下の婚礼」は下宿先の年上の娘と彼女の妹らしい12歳の白痴の少女との三角関係だ。いずれも具体的な性行為が描写の中心になっている。読んでいて何だか汚かった。
 いや、池田の自己批判のことだ。昔感心したその自己批判は中途半端なものだった。これならむしろ太宰の方がまだましに思えたほどだ。ただ、池田は執筆にあたって太宰を参考にしただろうことは想像できた。版画はともかく文学の世界は池田には背伸びしたり跳び上がったりしてやっと頭のてっぺんが覗いただけだった。芥川賞受賞に関して、選考委員の永井龍男が反対し、吉行淳之介が強く推したという。私は吉行のファンだが、これに関しては永井に賛成したい。
 太宰に関しても少し……。猪瀬直樹の『ピカレスク』(文春文庫)によれば、太宰の自殺はすべて狂言だった。最後に亡くなったのは心中相手の山崎富栄が一枚上手で、それを察して太宰には青酸カリを飲ませているという。

「太宰の死顔は驚いていいくらい平静なものであった」が、富栄のそれは「両眼をかっとみひらいて宙を睨んでいた」との山岸外史の証言を信じれば、太宰は水を呑んでおらず死後に入水したとも考えられる。富栄はそうではない。富栄は太宰の死を見届け紐で結わえ、体を引っ張り水没させるまで意志をはたらかせなければならない。雑草をなぎ倒しながら急流に大男を引きずり込んだとしたら無理心中になるが、もちろん推量の域を出ない。

 猪瀬直樹都知事になんかなろうとしないで、文芸評論を続けていれば良かったのに。


斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

エーゲ海に捧ぐ (中公文庫)

エーゲ海に捧ぐ (中公文庫)

ピカレスク 太宰治伝 (文春文庫)

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