月曜日26日から東京渋谷の道玄坂ギャラリーで山本弘展が始まる。(7月2日まで)。個展のために用意したちらしの一部をここに掲載する。
アートギャラリー道玄坂で山本弘展が開かれます。1981年に51歳で亡くなり、その13年後1994年に東京で初めて個展が開かれてから、今回でもう22回目を数えます。
亡くなった時には全く無名だったのに、死後美術評論家の針生一郎、瀬木慎一、ワシオトシヒコ等の先生方から高く評価され、展評も読売新聞、芸術新潮、月刊美術、産経新聞、週刊ポスト、にっけい あーと等々に取り上げられました。徐々に名前も知られコレクターも現れました。亡くなって36年になりますが、少しずつ評価が高まってきたのを感じます。
山本弘は1930(昭和5)年に長野県の河野村(現豊丘村)で生まれ、幼い頃両親とともに隣の飯田市へ引っ越しました。
1945年15歳の時予科練へ入隊すると言って故郷を出ましたが、実際に入隊した記録はありません。
間もなく終戦を迎えて帰郷します。それから何度も自殺を試み、しかしいずれも生還しました。1947年17歳の時に全信州美術展特選、翌年上京して造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)に入学します。卒業した記録はなく、おそらく授業料が納められなく中退したのでしょう。
何年か東京で暮らしたのち帰郷し、その後ヒロポン中毒に苦しみました。25歳で日本美術会飯伊支部結成に参加し、日本アンデパンダン展に出品し始めます。同年、飯田市公民館で菅沼立男との二人展、1958年28歳の時飯田市公民館で初個展を開きました。1964年、飯田リアリズム美術家集団結成に参加。1966年36歳で松島愛子と結婚しました。この頃過度の飲酒のためか脳血栓になり、それ以降言語障害、手足の不自由に苦しみます。それでも過度の飲酒は止むことがなく、1973年43歳で脳血栓が再発します。
飯田市での個展は生前8回を数えましたが、ついに東京での個展はありませんでした。1981年51歳で自死します。その4年後、友人たちの手によって『山本弘遺作画集』が刊行され、飯田市内の3つの会場で400点を集めた大規模な遺作展が開かれました。1991年、飯田市美術博物館が50点近くを収蔵し、新収蔵品展に11点が展示されました。さらに1995年、同館で須田剋太・山本弘 二人展が開かれました。
1992年、針生一郎氏が飯田市へ遺族を訪ね、遺作を見て高く評価されました。その後1994年から東京京橋の東邦画廊で遺作展が始まり、別記のように様々な方から高い評価を頂いています。
針生一郎氏から、どんな画家にも見る者への媚びがある、しかしこの人の絵には全く媚びがないねと言われました。ただ自分のためだけに描いている。生涯、絵以外のどんな価値も顧みなかった"虚無の画家"、酒に溺れながら孤高を保ち俗世間を拒絶した"風狂無頼の画家" 山本弘の激しく美しい作品をご覧ください。
文中の「別記のように」というのは、ちらしの続きのページに記してある。
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山本弘展
2017年6月26日(月)−7月2日(日)
11:00−18:00(最終日16:00まで)
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アートギャラリー道玄坂
東京都渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂102
電話03-5728-2101
http://www.artshibuya.com