赤瀬川原平『反芸術アンパン』を読む

 赤瀬川原平『反芸術アンパン』(ちくま文庫)を読む。タイトルからは分かりにくいが、読売アンデパンダン展を回顧したもの。面白くてとても勉強になった。

 読売アンデパンダン展は、日本美術会の主宰する日本アンデパンダン展に1年遅れて、1949年に第1回展が始まった。読売新聞社主催の無鑑査、自由出品の公募展だ。出品料さえ払えばだれでも参加できた。

 読売新聞社は初め有名画家にも声をかけて大家が大勢出品した。しかしつきあいで出品していた彼らは次第に離れていく。

 赤瀬川は1958年の第10回展から参加している。当時武蔵野美術学校の学生で19歳だった。初めは署名だけが大きくてあとは無意味という絵を出品したりしていたが、体調を崩して名古屋の実家に帰っていた。そこへ吉村益信から手紙がきて、オールジャパンというグループを作るので出てこいと言う。参加者は風倉匠荒川修作、篠原有司男らだった。グループの名前はその後ネオダダに変った。

 1961年の第13回読売アンデパンダン展にはこのネオダダのメンバーがこぞって出品している。赤瀬川は自動車のゴムチューブを縫い合わせ、「ヴァギナのシーツ」と題したもので、広げると6畳の床面積の2倍ほどの大きさになった。

 荒川修作は洋服ダンスほどの大きさで、黄色い観音開きの扉の中に綿の生えたデスマスクが十数個、それが順番に顔が崩れて最後は巨大な水滴状になっている。吉村益信の作品は、美術館の床の上にパネルで囲って部屋を作り、そのベニヤの壁や家具調度品に無数のウイスキービンが棘のように林立している。

 小島信明、紅白の幔幕を張り巡らして、そこに設置したドラム缶の中に会期中出かけて行っては自分の体を「作品」として立ちつくす。

 他に、「九州派」は櫻井孝美や菊畑茂久らが土俗的な作品を出品し、名古屋の「ゼロ次元」は会場に布団を敷いてメンバーが寝込んで、天井に貼った1枚の春画を皆でじーっと見ていた。

 また「時間派」というグループもあった。

 第14回展では女陰フォトを展示したものや、時間派の床一面に敷いた布の下に絵具入りの袋がいくつか装置されていて、観客がその上を歩くと袋が潰れて絵具が布に染みてひろがるのもあった。どちらも撤去された。

 第15回展で、高松次郎は「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を出品した。壁に掛かる大きな白いカーテンの合わせ目から紐が伸びてやがてそれが美術館の石段を降り、上野公園の中を右往左往し、上野駅の構内にまで伸びて入り込んでいた。

 風倉匠の作品は「事物」と題したが、下半身裸の舞踏だった。

 しかし、読売アンデパンダン展はこの第15回をもって突然終わった。主催する読売新聞社が第16回展の始まろうとする1カ月前に中止を決めたのだった。紹介したような若い作家たちの不穏な作風を嫌ってのことだと赤瀬川は思っている。おそらくその通りなのだろう。

 一方池田龍雄は10年位前の講演会で、中止になったのはアンフォルメルの影響でアンフォルメルっぽい作品が大量に出品されるようになったからだと語っていた。墨をぶちまけたような作品でも一見アンフォルメル風と言えないことはない。地方の素人画家で方法も思想も技術もない画家でもそれっぽい作品が作れてしまう。かつて宇佐美圭司がパスキアを評して「そこには、西欧文化が築きあげてきた絵画の技術的蓄積が片鱗も見られない」と批判したことがここでも当てはまる。

 読売アンデパンダン展の主として後期に関する歴史について大事なことを教わった。とても良い本だと思う。もっと早く読めば良かった。