黒澤和子『パパ、黒澤明』を読む

 黒澤和子『パパ、黒澤明』(文春文庫)を読む。先に読んだ同じ著者の『回想 黒澤明』(中公新書)はイマイチだったが、本書は面白かった。『回想~』がパパについて書いた3冊目だったのに対して本書は監督が亡くなって1年後に書いたもので、書きたいことがいっぱいあり、思い出も生々しいからだろう。

 和子は家庭で父として接していたが、母(黒澤の妻)が亡くなってからは、別居はしていたものの食事の世話から家事一般までこなし、晩年の3作『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』では衣装担当として黒澤組のスタッフに加わる。だから監督の日常生活から映画製作まで身近に接し、それらの豊富なエピソードを綴っていく。『トラ・トラ・トラ!』では突然の監督降板という事件が起こり、監督の自殺未遂もあった。この辺りの事はさらっと流して詳しくは書かれていない。

 和子が母と銀座に出たとき、あっちこっちの男たちが、親分、親分と母に挨拶にくる。何事かと問い質すと、結婚前は銀座で幅をきかせていて、鮨屋やスケート場を借り切っては遊んでいたという。

 イタリアで『乱』の上映会のあと、首相官邸でディナーパーティーが催された。官邸の隅々に背の高い近衛兵が立っていて、監督や和子たちが差し掛かると小銃をガチャリと引きよせて敬礼をする。

 イタリアの首相はジョーク好きで、近衛兵に敬礼される度にびっくりしたと父が話すと、「私なんか、日本の家に招かれる度に、靴下に穴が開いていないかとドキドキした」と言い返す。そう言えば、駐日ライシャワー大使が日本の家庭を訪れたとき、靴下に穴が開いていたと読んだことがあった。

 しかし、世界の黒澤を父に持つことはとんでもなく大変なことだったろう。本書のあと、『黒澤明の食卓』を書き、『回想 黒澤明』を書いている。編集者の期待も大きかっただろう。『~食卓』までは触手が伸びないからここまでにしよう。