山本弘の初個展は1958年(昭和33年)8月に飯田市公民館で開かれた。当時山本28歳。この時36点を展示したと記録にある。この個展について先輩で俳人でもある久保田創二が飯田市の地方紙『南信州』に寄稿している。久保田創二は、山本のことを詠んだかにも見える次の句を書いた人
死 な ば 十 代 帰 燕 せ つ な き 高 さ 飛 ぶ
その久保田創二の全文(『南信州』1958年8月26日付け)
河童に水
山本弘君が個人展を開いた。
つい去年あたりまでは考えもおよばなかったことである。
日夜酒をくらい、ニンニクくさく、浮浪の容相を呈し、のみしろに、自分の片目をくりぬいて売り払うといいふらし、線路まくらに自殺をくわだて、往来へ寝転がって不貞腐れ、とても個展どころのさわぎではなかった、その後、旅に出て山の仕事などして暮していたらしかったが、いつかまた舞いもどったといううわさの中で、山本弘に養子の口がかかったという話をきいた。
まもなく弘君は私の所へ現われた。
座光寺原の耕雲寺という寺にすみこみ、いわば寺男のような体裁で働きながら画を描いているとのことであった。
あごのあたりにふっくらと肉がつき、顔色もカラリとして健康にみえた。
養子にもらわれた話も、なるほど不自然ではなかった。
お寺には若い独身の住職とその母親と、弘君のほかに、ナナという一匹のめ猫がいて、この猫がたれよりも弘君になつき、本堂で昼寝をしていると、ワキノシタのところへ鼻を寄せて甘ったれるそうである。
お経も大分ならいおぼえたので、お施餓鬼やお盆には檀家をまわるとかいっていたが、この話にはすこし調子に乗りすぎたおもむきがあってうかつに信用は出来なかった。
だいいち、あの風体にスミゾメのころもは似つかわしくない。
つい四五日前、弘君はふたたび私の店へ姿をみせた。若い男と一緒であった。
個展のポスターをはって歩いているとのことであった。
つれの男はピストルの形のライターを出してタバコへ火を点けた。引き金を引くとパチリと火が出る仕掛けのものである。
それはいかにも、そういう玩具めいた器具を操作するに似つかわしく、色白、童顔の愛くるしい青年で、それが耕雲寺の住職だったのである。
河童が水を得た生活の中で、もりもり描きまくった40点は、小品ながら、いずれも意慾がみなぎって気持ちがいい。
今回の山本弘個人展は、身心ともにたちなおった彼の、新しい出発の意味をこめて世に問うたものと私は解したい。
成功の裡に終らせたいと念るものである。
(25日―27日まで公民館)
初個展は成功だったらしい。出品36点のうち、28点が売約と記されている。
意外と几帳面な性格で、個展慰労会出席芳名という一覧表が残っていて、25名の中には明大学生の後藤総一郎の名前もある。後の明治大学教授で日本思想史学者のことだろう。後藤は飯田市郊外の遠山郷出身だった。さらに会期中金品納入と書かれた一覧表もある。14名から金一封やウヰスキイ、果物、菓子などをもらった記録だ。けっこう愛されていたのだなあ。