中松商店の「現代画廊の案内状――洲之内徹からの便り――」を見る


 東京銀座の中松商店で「現代画廊の案内状――須之内徹からの便り――」が開かれた(12月23日まで)。洲之内徹の現代画廊(1961−1987)が発行した展覧会案内状を展示していた。
 DM葉書は最初に画廊を構えた銀座7丁目あたりの案内図を表示していて興味深い。オーナーに若栗玄の案内状はあるかと尋ねると1点あったとファイルを探して見せてくれた。さらにコピーを取ってくれた。「画廊から」という現代画廊発行のそのパンフレットのタイトルは「若栗玄 1979」というもの。1979年6月25日から7月7日まで個展を開いている。
 パンフレットによると、若栗は1926年長野県に生まれる。1945年東京美術学校師範科中退。今の東京藝大だ。1955年に自由美術家協会展に出品、以後1960年まで毎回同展ならびに日本アンデパンダン展に出品とある。1969年から1970年にかけてインド、ネパールを行脚。1976年から現代画廊で個展を開き、今回(1979年)が3回目となる。
 パンフレットに洲之内が書いている文章の末尾を写す。長野県美麻村に最後の住民としてひとりで住んでいると紹介してから、

 ひとりで何をしているかといえば、絵を描いている。絵はだんだんよくなり、美しくなってきた。四年前には、山脈の向こうから巨大な裸婦が半身を現わしているというような、奇妙キテレツな絵があったりしたが、そういう試みのようなものをやめて、自然の美しさを素直に受け容れようとするようになった。すると、絵が生き生きとし、冴えてきたのだ。身辺が変わっただけではない。若栗さん自身も少しずつ変わっている。

 この後も現代画廊での個展はあったのだろうか。現代画廊がなくなった後、同じ場所で美術ジャーナル画廊が営業をしていたが、若栗はそちらで何度か個展をしていた。

 現代画廊のパンフレットは白黒印刷なのでよく分からない。身辺で見られた風景や静物を描いている。
 若栗には私が若いころ大変お世話になった。当時、もう50年前になるが若栗玄は私の村の住職で小原げん祐と言った。曹洞宗の渕静寺の住職で、私の家はそこの檀家だった。村では渕静寺さまと呼ばれていた。祖父が親しくしていたので自然馴染みがあった。2浪が決まったときに相談に行った。一晩付き合っていろいろ話してくれて、最後に君には俺の友人の山本弘がいいよと山本を紹介してくれた。後日山本に会って、その縁が50年経った今も続いている。
 50年前は確実に小原の方が山本より画家として優れていた。美術ジャーナル画廊や亡くなったあとのロートレック画廊での若栗玄遺作展を見た限り、山本は遙かに若栗の境地を突き抜けていた。数年前に飯田市内で小原に教えを受けた画家たちが遺作展を開催した。村から出奔する前の小原の方が良い絵描きだった。
 小原と山本弘、関龍夫らは飯田市リアリズム美術科集団を組織していた。優れた画家たちだった。

長野県立飯田高校同窓会のHPに載っている若栗玄の「沐浴(ガンジスにて)」
以下は、喬木村を出奔するまえ、50年以上前の小原げん祐の作品

ねはん

きんま道(木馬道)

寺族

寡婦

婦人像

埋葬

作品1(左)とニット機(右)
 ※小原げん祐の「げん」はサンズイに玄。
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「現代画廊の案内状――洲之内徹からの便り――」
2018年12月7日(金)−12月23日(日)
13:00−18:00(10日と20日休業)
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中松商店
東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル313号室
電話03-3563-1735