現代画廊での若栗玄個展に対する洲之内徹のコメント

 先にこのブログに、中松商店でもらった洲之内徹の現代画廊で開かれた若栗玄個展を紹介した。それは1979年のものだった。古い資料をひっくり返していたら、25年も前の1994年8月に洲之内徹の弟子である後藤洋明さんからいただいた若栗玄の個展のパンフレットのコピーが見つかった。それは1976年から1983年までの現代画廊での5回の個展の記録だった。
 若栗は1926年長野県喬木村生まれ、1945年に東京美術学校(現東京藝大)師範科を中退している。故郷へ呼び戻され父の後を継いで住職になることを求められた。永平寺で修業し曹洞宗の僧侶の道を進んだが、絵を描くことは止めなかった。1955年から自由美術科協会展に出品、以後1960年まで恵毎年、同展ならびに日本アンデパンダン展に出品を続けた。
 1969年から翌年にかけてインド、ネパールに滞在した。その後寺も家族も捨てて村を離れ、新しく若栗玄を名乗って松本市近郊に移り住んだ。
 現代画廊での洲之内徹のコメント「画廊から」を写してみる。
 1976年7月水彩画展(若栗50歳)

 若栗さんが三年前から住んでいる長野県の美麻村高地というところはいわゆる過疎地帯で、八十何軒かある農家のうち、現在人の住んでいるのは二軒しかない。信濃大町から信州新町へ通じる道路が村の中を通っていて、バスの路線になっているが、お客がないからバスは通っていない。バスの通らない山道にバス停の標識だけが立っている。だから、車がないとそこへは行かれない。六月の半頃、私は若栗さんの家へ行ったが、大町の駅まで、若栗さんに車で迎えに来てもらった。
 若栗さんの家まで大町から十五キロメートル、峠を越えると、若栗家の一里四方には人は一人もいない。その一里先に、もと小学校だった建物がいま鉱泉宿になっている。その宿から先、また一里は誰もいない。私はそこへも車で送ってもらって行き、二晩泊まって湯に入ってきた。その分校は廃校になったが、ずっと遠くに分校が二つあり、若栗さんの奥さんが、それぞれへ週に一日ずつ教えに行く。若栗さんが車で送り迎えをするが、タイヤが二ヶ月で坊主になるそうである。
 若栗さんの家はまわり一面鳥が啼いている。鶯が窓のすぐ外へ来て啼く。私は奥さんに、いいところだけれど住む身には大変でしょう、と言った。すると奥さんは、いいえ、ちっとも大変じゃありません、ほんとにいいところで、いつまでも住みたいと思います、と明るく笑って答えた。私もつまらないことを言ったものである。お互いに好き合って息をはずませているような若栗さん夫婦を見ていると、私は男と女の原型を見るような気がした。
 若栗さんの絵が、これまた絵の原型みたいなものだと思う。自分の周囲の自然の、自分の気に入ったものを、あるがままに、見えるように描く。こんな人はいまどきほんとうに珍しい。

  1978年4月水彩画展(若栗52歳)

 一昨年の秋、若栗さんが作品を持って美麻村から出てきたとき、いち日がかりで二人でそれを見て、なんとなく植物図鑑の挿絵みたいなところがあるが、どうしてだろう、これをどうすればよいか、当面の課題にして、二人で考えよう、ということになった。
 その後しばらくして、私が長野市へ行ったとき、美麻村の若栗さんの家を訪ねてみようと思い、電話をかけてみると奥さんが出て、若栗さんは結核で、松本の療養所に入院していますと言う。山伏みたいに頑健そのものに見えた若栗さんに、そんなことがあろうとは思いもよらず、驚いたが、昨年の春、九州、四国、中国と車で旅をしたついでに松本へ寄り、療養所へ訪ねてみると、若栗さんは異例の速やかな恢復ぶりだということで、二人でひと気のない理髪室か何かへ行き、煙草をのみながら話をした。その部屋は、使わない日は、若栗さんが仕事部屋にさせてもらっているのであった。療養所の近くにたくさんあるのだという石の神像なんかを、若栗さんは描いていた。
 若栗さんは、確か一年足らずで退院した。そして、今年になってからのある日、また以前のように、何十枚もの作品を担いだり、提げたりして東京へ出てきた。私は、病気のために若栗さんの絵も弱っているのではないかと思っていたのだが、見せられた作品は反対に、気力充実していて、前よりもよくなっていた。病気の恢復と共に、絵のほうも乗ってきているという感じであった。
 図鑑みたいなところもなくなっていた。この前のとき、私たちは物を見るということでも話し合ったのだったが、物を見るといっても、それは物をどう見るかということ、例えば花や葉っぱの付き方がどうというような見方もあれば、色やトーンで見る見方もあり、絵が絵になるためにはそれなりの見方があるという至極あたりまえなことに、若栗さんの新しい絵を見ていて、私は今更のように気がついたのだった。

 1979年6月水彩画展(若栗53歳)
 この時のことは12月23日に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20181223
 1981年1月油絵展(若栗55歳)

(前略)現代画廊に関する限り、若栗さんの個展はこんどで五回目である。途中、抜けた年が二回あるから、年でいえば七年目か八年目になる。その、七年か八年前、私が初めて若栗さんを訪ねたときは、美麻村には、人の住んでいる家は、若栗さんも含めて二軒しかなかった。若栗さんの周囲、一里四方には、人間が一人もいなかった。いわゆる過疎の村である。
 そういうところへ自らをとじ籠めているように、若栗さんは自分の信条にとじ籠っている。自分の眼に美しく見えたものを見えるままに描く、とでも言おうか。私に異論がないわけではない。しかし、彼の生活と仕事ぶりを見ると、軽々しく私の意見などは言えない。彼がそのように歩き、その道に徹し、その道を深めて、いい仕事をすることを念じ、また信じるだけだ。
 ひとつだけ変わったことがある。これまでの四回の個展はいつも水彩画だったが、こんどは油絵だ。誰にも知られないところで、若栗さんは一歩一歩、自分の道を踏みしめて足を進めている。


 1983年2月油絵展(若栗57歳)
 しかし残念ながら、現代画廊での最後の個展となったと思われるこの年の個展はパンフレットの表紙しかないので詳細が分からない。洲之内は1987年に亡くなっているので、この後も若栗展があったかも分からない。
 私は1990年代になっての美術ジャーナル画廊での個展と、長野市にあったロートレック画廊での個展、同じ画廊での遺作展をみてきた。若栗は2009年に83歳で亡くなった。若栗玄と現代画廊での名前で書いてきたが、私にとっては喬木村の渕静寺の和尚さん(小原げん祐さん)であり、わが師山本弘の親友だった人だ。
 不幸なことに飯田市美術博物館にも1点も収蔵されていない。
 写真は1983年の「山あじさい」8F