小原泫祐/若栗玄さんの手紙

 昨日、小原泫祐/若栗玄さんの簡単な履歴をスケッチした。その中で、東邦画廊での山本弘初個展に際して画廊から山本の年譜の作成を求められ、知人たちに手紙を書いて山本とのエピソードなどを教えてくれるよう依頼した。それに対して小原/若栗さんは丁寧なしかしきっぱりとした拒否の手紙を下さった。私はそれを巻紙の手紙と書いたが、和紙に墨で書いたものだった。その全文を紹介する。手紙は1994年2月21日付。

冠省
御手紙拝見しました
御承知のことゝ思いますが今から二十年前郷里を出まして以後親族とは一切義絶しています この間(かん)家庭裁判所には何回も足を運び調停の手続きをしてきました 「小原泫祐」の名前は私は死んだものと思っています 復活はありません
したがって過去の一切の親族、交友関係を断っています
たまたま「若栗玄個展」を見に来られる方もいますが過去の話はお互いにしないよう若栗玄の作品についてのみ話すことにしています
人生でもっともわがまゝで、損な、下手なやり方ですべてを捨てた私は決していいわけはしません
残された人生をこのまゝやり通して生きる外ありません
山本弘君の想い出、感慨はひと一倍多くありますがこれも私にとって捨てる外はありません
以上のことをよく汲み取っていただき、今後一切私のことを御放念下さるよう御願い申しあげます
折角の御厚情を踏みにじるようで心苦しい次第ですがどうぞ御容赦下さい
                   草々
          一九九四年二月二十一日
                 若栗 玄
曽根原正好様

 この手紙は頂いてから26年間誰にも見せなかった。
 小原泫祐夫人の道子さんとは小原さんが出奔する以前に「リア美」の展覧会などで何度か会っていた。ハンサムな小原に相応しいきれいな人だった。その道子さんに偶然夜の新宿駅で会ったことがあった。
 もう45年ほど前、友人と阿佐ヶ谷で会った帰り、夜10時過ぎくらいに新宿駅の山手線内回りのホームで電車を待っているとき、ホームに見知ったような顔を見かけた。ホームの端に立つその人の前を通って顔を確認した。小原夫人だった。彼女も私に気付いてお互い挨拶をした。
 大学時代の恩師たちに会って今帰るところなの。線路の向こう側山手線の外回りのホームを指して、あそこに先生たちがいるの。私、若い男性に話しかけられてるなんて思われるかしら。(私は当時20代半ばだった)
 電車に乗って続きを話した。遅くなっちゃったけど、今夜は蒲田の親戚のところに泊まるつもりなの。でも遅くなってもう起きていなかったらどうしよう。私は現在蒲田の彼女のところに住んでいます。狭いところだけど、もし親戚に泊まれなかったら私のところに来てください。蒲田に着いて親戚だという大きな一戸建ての門前で呼び鈴を押している彼女を遠くから見守った。やがて中から反応があったらしく、私を振り返って大丈夫よとの合図をくれた。
 電車のなかで、泫祐さんのことが分かったらどんなことでも教えて、と言われたが、上記の手紙をやり取りするまで小原さんとの接触はなかったし、仮にあったとしてもそれを報告するのは躊躇したと思う。
 道子さんは小原さんが亡くなった翌年亡くなったと聞いた。

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左から小原泫祐、長男、道子夫人、次男、渕静寺玄関前にて

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1970年、飯田アンデパンダン展会場、右下に座っているのが小原泫祐、立っている左から2人目が山本弘