小原泫祐と若栗玄という画家のこと

 小原泫祐さんと若栗玄さんという画家について書いておきたい。実は二人は同一人なのだ。小原さんは1926年、長野県喬木村の渕静寺の次男として生まれた。のち東京美術学校(現東京藝大)師範科に入学したが、兄が寺を継がなくて教師の道を選んだため1945年に中退して寺を継いだ。さすがに葛藤があったようで、後日そのあたりのことを『大法輪』だったかの僧侶の専門誌に書いている。
 僧侶を続けながら絵を描いていた。自由美術に出品していたが、のち日本アンデパンダン展への出品に変えている。1964年には飯田市リアリズム美術家集団(リア美)結成の創立メンバーになっている。
 渕静寺は小さな寺で檀家はわずか80軒余しかなかった。元々は同地を治める旗本3千石の知久氏の菩提寺で檀家はなかった。明治維新後、寺は曹洞宗永平寺の修行僧のための寺となったと聞いているが、やがて檀家を得て普通の曹洞宗の寺になった。しかし80軒余の檀家では収入が乏しく、喬木村役場で社会教育主事の仕事についていた。それが、一緒に仕事をしていた東大出身の社会学者島田修一とともに偏向教育を檀家から責められ、役場を退職した。島田は村立中学の司書に左遷させられた(のちに中央大学教授になっている)
 小原は生活のため1968年飯田市に芸術教育研究所を開設して子供たちに美術を教えた。1970年ごろ芸術教育研究所を閉じ、オバラ芸術研究所を開設した。

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(当時の小原の作品)

  私の実家は渕静寺の檀家であり、祖父は戦前からの日本共産党の党員だった。私が小学生のころは自宅で定期的に細胞会議が開かれ小原も参加していた。また小原は冬になると寒行として村の家々を托鉢して回っていた。そんなことから私は幼少時より小原に親近感を抱いていた。
 私が受験に失敗して2浪が決まったおり、たぶんひどく落ち込んで役場へ小原を訪ねて行ったことがあった。小原は夜に寺へ来るように言った。話を聞いてくれて、一緒に読経をしたり座禅を組んだりした。そのとき頂いた『修証義』は今も手許にあり、しばしば慰めになった。その時、君には自分より友人の山本弘が向いていると紹介してくれたことが現在まで続いている山本弘との縁になった。
 山本に会い、しばらくして私をモデルにしたという絵が描かれた。現在飯田市美術博物館に収蔵されているその「青年」と言う絵は、ひたすら暗い男が描かれている。頭上にかぶさる黒い雲はおそらく萬鉄五郎の「赤い雲のある自画像」から、右手の黒い影はムンクの「思春期」から取られたのではないか。後日会社の女性に見せたところ、ひと言「ゾンビ!」と。なるほど、当時の自分はゾンビだったのか。
 絵画教室を開いていた小原は、1973年、47歳のとき、教え子の母親と駆け落ちして二度と故郷へ戻らなかった。家庭も寺も教室も捨てて行った。小原はハンサムで、私の叔母が同級生だったが、いつまでも懐かし気に語っていた。小原はおそらく美人の奥さんと東京で出会い結婚しているが、彼女を巡って無着成恭と争って妻にしたと聞いた。たとえ貧乏寺の住職でも小原は魅力的だったのだろう。頭も良かった。
 寺を経営し僧侶をしながら描いていた絵は、油彩で涅槃を描いたり抽象画を描いたり、絵具に砂を混ぜて特殊なマチエールを作ったり、優れた画家だった。当時、山本弘について、あいつは甘えているから現在の画業からも(アル中の)生活からも抜け出ることができないのだと批判していた。その批判が妥当だと思われるくらい、小原の作品は山本の上を行っていると思われた(のちにそれは逆転するが)。
 出奔するとき、檀家に宛てて手紙を書き、インドへ行きます、皆さんには二度と会いませんと決意を述べた。インドへも何度も行ったらしいが、結局長野県の松川村に定住した。駆け落ちした女性とは別れ、別の女性と一緒になった。10歳年下の澄子さんも魅力的な女性だった。
 小原は名前を変え、以後若栗玄と名乗った。洲之内徹の現代画廊で5回の個展をし、洲之内は若栗について愛媛新聞に連載したエッセイに何度か書いている。洲之内が亡くなったあとは銀座の美術ジャーナル画廊で1989年、1991年、1995年に個展を開いている。
 この1995年の個展の折り、私はオープニングに若栗を訪ね25年ぶりくらいに挨拶した。その時画廊主が若栗に私のことをこちらどちらですの? と尋ねた。その3年前から私も関わって東邦画廊で山本弘展をやっていたのを引いて、彼は山本弘という画家を応援している人ですと言って、故郷のことには一切触れなかった。
 その山本弘展が始まる前に、画廊に頼まれて年譜を作成した。山本の知人に広く手紙を書いて、山本について教えてくれるよう頼んだ。その返事に小原=若栗は、自分は過去を捨てた人間です。離婚やその他の手続きがどんなに大変だったかを述べ、過去について触れるつもりは全くないし、そのような問い合わせをするのならどんな付き合いもしない、という厳しい巻紙の返事をくれた。
 翌年から年賀状だけは出し続けたが返事は一度ももらえなかった。それが2004年、10年ぶりに個展の案内状をいただいた。長野市ロートレック画廊で個展をする。ついては〇日に在廊する予定だとあった。久しぶりに訪ねて行って話をすることができた。
 1995年の美術ジャーナル画廊とこの2004年のロートレック画廊の2回、若栗を名乗ってからの作品を見ることができた。それは小原名での僧侶のころの絵とは全く異なるものだった。後半生の作品を私は評価できなかった。もっとも東邦画廊の画廊主中岡は、美術ジャーナル画廊の個展のパンフレットを見て、さすが美術ジャーナル画廊が取り上げる画家だと評価していたが。
 現代画廊での個展に際してのパンフレットや、愛媛新聞に書いている洲之内の評は、必ずしも芳しいものではなかった。洲之内が亡くなったあと、彼の愛人だった空想ガレリアの画廊主肥後さんと若栗に関して話したことがあった。肥後は(おそらく洲之内と)長野の若栗のアトリエを訪ねたと言い、洲之内が亡くなったあと、若栗から自分の絵を扱ってほしいと頼まれたが断ったと言っていた。あの絵では私は扱えないわ、と。
 そして2010年に若栗澄子さんから若栗玄遺作展の案内をもらった。若栗は2009年9月12日に亡くなったという。83歳だった。パンフレットに澄子さんが書いている。

 東京国立近代美術館で開催されたゴーギャン展は、平日にもかかわらず、肩越しに観る混雑ぶりでした。(中略)会場では、いつもの夫なら、感慨を私にぶつけたり、解説もあるのに、この度は、寡黙でした。一巡すると、太い白綱を跨ぎ越え、もう一度観てまわりました。帰宅しての2日間、アトリエに籠り、庭の手入れにと、熱中していた夫に、どこか常と違う、切迫したものが有ったと、今にして思います。
 「背中がビリビリ痛い、トクホンチールをぬって!」と大きな声。午前3時でした。びっくりしてとび起きた時には、「フーウー」と、太く息を吐き、手中のトクホンチールが、コトリと落ちて、呼吸が止まりました。―解離性大動脈瘤―と診断されました。
 夜明け早々、アトリエに行ってみますと、そこには、棚から降したインドでのスケッチ類が、うず高く積まれていました。
 ゴーギャン展で受けた感動から、沸き上がった制作への構想を、頭脳いっぱいにはちきらせて、逝って了ったと思いますと、胸が痛みます。

 その澄子さんも昨年83歳で亡くなったと聞いた。

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(若栗玄の作品)

 あの優れた画家の小原さんが、若栗と名乗ってからなぜあのような絵を描き続けたのだろう。私には、僧侶とか美術教師を辞めて画業一筋で伴侶との生活を支えていくために、どこか素人受けのする具象画を描くことを選んだせいではないのかと思われるのだ。
 2浪が決まって落ち込んだ私が訪ねて行った渕静寺での小原さんとの一夜を忘れることはできない。小原さん、いや渕静寺様と呼んでいた。あの夜、早く40歳になりたいと私が言って、そうすれば家族を養うためにもう文学をやりたいとか、いろいろ迷うことがなくなっているだろうからと続けたのに対して、40歳を過ぎてもまだまだ惑うよと答えられた。
 小原さん、改めてお世話になりました。僭越ながら小原さんの簡単な履歴を記したのは、小原さんの前半生と後半生の若栗さんのどちらも知っている人間があまりいないのではないかと危惧したからです。私の尊敬する数少ない人でした。