ここ何回か小原泫祐/若栗玄さんについて書いている。コロナ禍で自宅にいるのを機に古い資料を整理していたら、2009年にいただいた若栗さんの年賀状が出てきた。若栗さんはその年の9月12日に亡くなったから、これが最後の年賀状になった。
丑年にちなんで牛に河童が乗っている木版画だ。
また、34年前の新聞の切り抜きも出てきた。朝日新聞長野中南信版だ(1986年7月31日)。若栗玄さん(60)夫妻が、長野県北安曇郡松川村西原に馬羅尾(ばらお)画塾を建てたという記事だ。
長野市の建設現場で使ったという鉄骨プレハブの中古の作業員宿舎を買ってきた。鉄の骨組みだけは専門家の手を借りたが、あとは夫婦だけの共同作業。床と壁、天井にベニヤ板を打ち付け、床には赤と青のカーペットを敷いた。天井や壁の高いところのベニヤ板張りには苦労したそうだ。
玄関の引き戸は、友人からもらったもので、中古とはいえ立派なもの。二階建て延べ66平方メートルの建物2棟をL字型に配置、1棟はアトリエ、他の1棟を画塾にした。
電気、ガス、水道も無く、水はプラスチックのタンクで運び、暗くなればランプかロウソクという浮世離れの画塾だが、オープンと同時に小学校3年の女の子から65歳の農家の主婦まで10人の画塾生が集まった。書店の主人もいるし、子育ての終わったパン屋の奥さんもいる。
毎週日、月曜日の2回、山道を登ってきて、若栗さんと元高校の美術教師をしていた妻澄子さんを囲んで絵筆を振るっている。
若栗さんは飯田市の生まれ。東京美術学校(現東京芸大)に進んだが、師範科だったため、絵画のほか陶芸や彫刻など美術全般をやらされるのに嫌気がさして退学。
それからは絵ひと筋の勉強を始めた。ようやく自信作ができたるようになった30年、自由美術家協会、日本アンデパンダン展に出品、以来、5年連続出品した。その後、画材を求めたインド、ネパールに渡り、1年間にわたって寺院や風物を描いてきた。
48年暮れ、町の生活を嫌って山奥の北安曇郡美麻村高地の廃屋を借りて移住した。同地区は、かつて100戸を超える農家があったが、移住したときは約1割のわずか11戸だけという過疎地。不自由な生活、厳しい風土と闘いながら、付近の廃屋や自然のままの風物を描き続けたが、一人暮らしに耐えられず、去年8月、12年ぶりに妻子の待つ穂高町に帰った。この時、同地区は廃村になっていたという。
若栗さんは、水彩、油彩の両方を描くが、水彩は、特殊な定着剤を使って水彩画の透明さを残しながら油絵のように絵の具を重ねてゆく独自なもので、県内をはじめ東京、名古屋、埼玉などで開いた個展で高い評価を受けた。「制作をしながら、夫婦が力を合わせて地方文化に役立ちたい」といっている。
インド、ネパールへ1年間行っていたのは村を飛び出したあとだったのだろう。それ以前にもインドへは行っていた。インドへ行く旅費を作るために住職をしていた寺の檀家に声をかけて、4号くらの海の絵をたくさん描いて1点3万円で売ったことがあった。岩に波が踊る海の絵は手慣れた感じの上手いものだった。あるいはそれで100万円くらい作ってインドへ行ったのか。インドでは酒が高くて買えずに安いハシッシを吸っていたと言われた。もしかすると、海の絵をたくさん描いて売れたことが、若栗さんの絵をどこか通俗的なものに変えてしまったのか。
無理もないことだが、人妻と駆け落ちして寺を捨てたことや、その後のことは伏せられている。記者の問題かもしれないが、「以来、5年連続出品した」のは自由美術協会展だろうが、この記述はあいまいになっている。
それにしても、こんな不自由をあえて選んで、どこか自己処罰の意識があったのだろうか。
年賀状の表書きも載せたが、良い字を書いている。