大沢梅次郎という人

 JR総武線亀戸駅から明治通りを北上すると10分ほどで北十間川にかかる福神橋を渡る。右手すぐには関東でも最も古い神社だと私が確証する吾嬬神社があり、反対の左手に公園にしては小ぶりな場所があり、その奥に銅像が立っている。銅像の主は大沢梅次郎と名前が書かれている。彫刻家は本庄正雄、1962年の年号が刻まれている。

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 大沢梅次郎を検索すると、明治22年に亀戸の旧家小山家に生まれ、吾嬬町の町会議員や東京府議会、第2代東京都議会議長などを歴任したとある。戦中から戦後にかけて都議を4期16年勤めている。
 著書があり、『北中支を一巡して』(帝国通信社)が昭和13年に発行されている。ページ数は36ページ、目次を見ると、

一、 北支に入るまで / 3
二、 天津-邦人は事變前に倍加- / 5
三、 北支商賣の秘訣-天津の奇遇- / 7
四、 天津市長の新計畫-小學校百校増設案- / 9
五、 事變發端の蘆溝橋 / 10
六、 萬里の長城と皇軍の奮戰 / 12
七、 張家口-物々交換の露天市場- / 14
八、 北京-唯一の事變史跡廣安門- / 16
九、 古都所感-紫禁城を觀て- / 17
一〇、 北京支那小學校參觀記 / 19
一一、 北京市長より小橋東京市長へ / 21
一二、 濟南-子供にもデマ徹底- / 22
一三、 青島-灰と化した二億圓- / 25
一四、 上海-敵の背後に黒幕- / 26
一五、 南京-一番乘りの日の丸の旗- / 29
一六、 結語-對支發展策- / 31

 日中戦争最中の雰囲気がぷんぷんと匂っている(カネオくんの口調で)。銅像そのものの出来は可もなく不可もなしといったところ。むしろ決して良い出来とはいいかねる。真面目に作った職人技といったところか。
 そんな生意気を断言してしまうのは、先に紹介した椋鳩十銅像とどうしても比べてしまうからだ。あれはとても良かった。
 それにしてもこの銅像の敷地はもう少し何とかならないだろうか。何かとても中途半端な印象だ。マクルーハンが「メディアはメッセージだ」と言った。この場合、銅像が大沢梅次郎のメディア(媒体、乗物)であり、またこの敷地が銅像のメディアになると言える。大沢の銅像が設置されている敷地としては中途半端ではないか。すると、ああこの人物はその程度の業績なのだろうと判断されてしまう。事実その程度なのかもしれないが。