歌人 諏訪兼位氏亡くなる

 今朝(3月22日)の朝日歌壇の高野公彦選の筆頭は諏訪兼位だった。


「わすれても大丈夫、僕が覚えておくよ」日福大生の認知症カルタ  (名古屋市)諏訪兼位

 

 選評「一首目、日本福祉大の女子学生たちが作ったカルタ。どの札も優しさに満ちているのだろう。なお、諏訪兼位氏は3月15日逝去」。
 諏訪さんが亡くなったのは新聞の訃報欄で知った。朝日新聞3月18日朝刊より、

 諏訪 兼位さん(すわ・かねのり=元名古屋大理学部長、歌人)15日、上腸間膜動脈塞栓(そくせん)症で死去。91歳。葬儀は近親者らで行った。喪主は妻佳子(よしこ)さん。
 岩石、鉱物を研究した。戦争体験や時事、日常を詠み、92年と09年に朝日歌壇賞を受賞。

 諏訪さんの名前は朝日歌壇で何度も見ていた。以前も書いたことだが、ずっと女性だと思っていた。そして茨城出身の人ではないかと。兼位が見馴れない名前だから親御さんが「かねえ」のつもりで付けた名前に兼位の漢字を当てたのだろうと推測していた。昔当時の部下と茨城県に出張した折、ある寺の池に「コイにイサを与えないでください」と書かれていて、茨城出身の部下が、これは「エサ」のことだと教えてくれた。茨城ではしばしば「エ」を「イ」と発音するのだと。
 それが間違いだと知ったのは、『図書』2015年8月号に諏訪兼位のエッセイが掲載されていたからだ。読み方が「すわ かねのり」とあり、専門が地球科学となっている。特異な名前だから同一人物だと分かった。エッセイのタイトルは「時代を超える『学生に与ふる書』」。
 その冒頭に、私は1928年に鹿児島に生まれたとある。1944年9月、中学4年のときに1カ月間学徒動員で知覧特攻基地の建設に従事し、1945年2月初めから7月末までの6カ月間、愛知県半田市中島飛行機半田製作所で海軍の偵察機「彩雲」の生産に従事した。このとき七高理科1年生だった。7月24日白昼の半田空襲はすさまじいものだった。工場は完全に破壊され、270人以上が死んだ。七高1年生は8月10日に長崎に集合せよという命令を受けてまず鹿児島に向かった。車中、名古屋・大阪・神戸が完全に破壊されているのを見た。広島着は7月30日、原爆投下1週間前で無傷の広島があった。8月はじめの西鹿児島駅に辿りついた。鹿児島は焦土と化していた。
 8月9日午後、長崎出発の打合せで郊外の七高教授宅に伺ったところ、長崎から電報が届いたばかりだった。長崎に新型爆弾が投下された。こうして七高1年生の長崎行きは無期延期になった。
 七高校舎は6月17日の鹿児島大空襲で焼失していたため、戦後の授業再開は1945年11月末だった。翌年、諏訪が七高理科2年生の時、兄が持っていた天野貞祐の『学生に与ふる書』を読む。

(……)戦争中に出版されたこの本を、私は何らの期待感もなく読みはじめた。しかしこの本は個人の尊厳を力説した道理の書であった。カント哲学やヘーゲル哲学や西田哲学などの哲学序説とでも言うべき書であった。私は熱心に読みふけった。戦争中に書かれた本が、時代を超えて、戦後の学生に大きな感動を与えたのであった。

 諏訪はその後、天野が桑木厳翼との共訳として出版したカントの『プロレゴーメナ』を岩波文庫で読み、いくつか誤植を見付け岩波書店に葉書を出した。岩波書店はこの葉書を天野に転送したらしい。天野から諏訪あてにていねいな礼状が送られてきた。諏訪は「大変おどろき何回も読み返し、そして今日まで大切に保存してきた」として、その写真図版が掲載されている。このエッセイの最後は、

 この葉書を手にし、69年ぶりに『学生に与ふる書』を読み、今なお色褪せていないことに二度目の驚きを覚えた。戦争中に書かれた書だが、今、ぜひ再読されたい。

 諏訪さん、今日の朝日歌壇に選ばれたことを知ることなく亡くなってしまったのか。でも最後まで現役で歌を詠んで良い生涯だったと言えるだろう。歌集も出版されているようだ。

 

 

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