諏訪兼位という人

 朝日新聞の読者が投稿する短歌のページ「朝日歌壇」にしばしば掲載される名前は知らずに覚えてしまう。直近(8月10日)では、岡田独甫、金忠亀、九螺ささら等に見覚えがある。もう一人名古屋市在住の諏訪兼位という人がいる。この名前なんて読むのだろう。以前から疑問に思っていた。「すわかねい」? 出身が茨城で、親御さんは「かねえ」のつもりで兼位と名付けた? 8月10日には選者の高野公彦が筆頭に選んでいる。


骨壺に石ころひとつからんころん東洋平和のいくさの果てに

 選評が、第1首は「フィリピンで散った従兄」と注。遺骨も戻らぬ戦争の悲惨さ。とある。
 ところが今月届いた雑誌『図書』8月号にその諏訪兼位のエッセイが掲載されていた。読み方が「すわ かねのり」とあり、専門が地球科学となっている。特異な名前だから同一人物ではないだろうか。エッセイのタイトルは「時代を超える『学生に与ふる書』」。
 その冒頭に、私は1928年に鹿児島に生まれたとある。1944年9月、中学4年のときに1カ月間学徒動員で知覧特攻基地の建設に従事し、1945年2月初めから7月末までの6カ月間、愛知県半田市中島飛行機半田製作所で海軍の偵察機「彩雲」の生産に従事した。このとき七高理科1年生だった。7月24日白昼の半田空襲はすさまじいものだった。工場は完全に破壊され、270人以上が死んだ。七高1年生は8月10日に長崎に集合せよという命令を受けてまず鹿児島に向かった。車中、名古屋・大阪・神戸が完全に破壊されているのを見た。広島着は7月30日、原爆投下1週間前で無傷の広島があった。8月はじめの西鹿児島駅に辿りついた。鹿児島は焦土と化していた。
 8月9日午後、長崎出発の打合せで郊外の七高教授宅に伺ったところ、長崎から電報が届いたばかりだった。長崎に新型爆弾が投下された。こうして七高1年生の長崎行きは無期延期になった。
 七高校舎は6月17日の鹿児島大空襲で焼失していたため、戦後の授業再開は1945年11月末だった。翌年、諏訪が七高理科2年生の時、兄が持っていた天野貞祐の『学生に与ふる書』を読む。

(……)戦争中に出版されたこの本を、私は何らの期待感もなく読みはじめた。しかしこの本は個人の尊厳を力説した道理の書であった。カント哲学やヘーゲル哲学や西田哲学などの哲学序説とでも言うべき書であった。私は熱心に読みふけった。戦争中に書かれた本が、時代を超えて、戦後の学生に大きな感動を与えたのであった。

 諏訪はその後、天野が桑木厳翼との共訳として出版したカントの『プロレゴーメナ』を岩波文庫で読み、いくつか誤植を見付け岩波書店に葉書を出した。岩波書店はこの葉書を天野に転送したらしい。天野から諏訪あてにていねいな礼状が送られてきた。諏訪は「大変おどろき何回も読み返し、そして今日まで大切に保存してきた」として、その写真図版が掲載されている。このエッセイの最後は、

 この葉書を手にし、69年ぶりに『学生に与ふる書』を読み、今なお色褪せていないことに二度目の驚きを覚えた。戦争中に書かれた書だが、今、ぜひ再読されたい。

 そう勧められたら、私は初めてだが読んでみよう。


学生に与ふる書 (1949年) (岩波新書〈第45〉)

学生に与ふる書 (1949年) (岩波新書〈第45〉)