岡田暁生『音楽と出会う』(世界思想社)を読む。第1章「音楽は所有できるのか?」を読み始めて、この読書は失敗だったと思ったが、章の終りに「My songがOur songになるとき」という小見出しがあって、伝説的な《ケルン・コンサート》のレコードの大ヒットの後来日して武道館で開いたキース・ジャレットのソロ・コンサートのライブ録音がすばらしいと書く。それはレコード化はされなかったが、FM放送を録音したものがネットで聴ける。「Kieth Budokan」で検索すればYou Tubeで聴くことができるから絶対聴いてほしいと書いている。
現在はカリスマ音楽家の空位時代だと書いて、21世紀のカリスマ指揮者はテオドール・クルレンツィスではないかという。そのモーツァルトの歌劇を振った動画がやはりネットで見られるというし、さらに、
……またパトリツィア・コパチンスカヤを独奏者に迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の録音は、ここ数十年で最も話題になったクラシックCDだと言って過言ではない。従来のどんな演奏とも完全に断絶していて、しかしまさにこれこそが作品の真の姿だったのだと聴き手に感得させる憑依の力がある。音楽原理宗教恐るべし。
つぎにカルロス・クライバーが1974年のバイロイト音楽祭で《トリスタンとイゾルデ》を指揮する姿を、オーケストラ・ピットから固定のモニターテレビで撮った映像がネットで見られるという。オペラ上演では演出関係者や合唱指揮などのために常時指揮者の姿を簡易モニターで舞台裏に中継している。それがネットに流れたのだろう、と。
これはとんでもない映像である。神がこの世に降臨した瞬間の記録だと言っても誇張にはなるまい。モニターテレビだから白黒の画面は当然ぼやけていて、顔の細部はほとんど判別できない。だが、まるでこの世ならぬものが降臨したようなその立ち姿は、誰がどう見ても「彼」のものだ。指揮棒を持ってあんなふうに立てる人間は、この世にただ一人しかいなかった。
この映像も「kleiber tristan」で検索すればすぐ見つかるという。またチェリビダッケがチャウシェスク政権時代のブカレストでエネスク《ルーマニア狂詩曲》を指揮したときの白黒テレビ番組もおすすめであると言う。
その他「音楽=癒し」を強く否定して、癒しの音楽の対極としてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章冒頭を挙げている。またAIに苦手なものは「身体性」であると。身体は音楽における人間性の最後の牙城の一つなのだ。生身の人間の息づかいや節回し、テンポのたわみや臨機応変のタイミングといった、「そこに確かに生きた人間がいる」と感じさせてくれるもの――これをシミュレーションすることは、AI君には当座ほぼ不可能であろう、と。
いや、岡田暁生の本に外れはない。